第338話 父娘の邂逅

 今までも、そうではあったのだが──。


 勇人が主人格となっている間、本来の人格たる望子の意識は完全に閉ざされてしまい。


 外で何が起こったのかは目覚めた後も覚えていないものの、この戦いにおいては違う。


 ……あらかじめ分かっていたからだ。


 全解放リベレイションを成し遂げた後、自分の中に宿る何某かと人格を交代する事になるのだと──。


 ……あらかじめ聞かされていたからだ。


 そして今、全なる邪神との激闘が終わり。


『──……ん、んぅ……?』


 望子の意識が少しずつ晴れていく。


 普通に眠りから覚めた時と同じ様に。


 ただ、いつもの朝と違う点が一つだけ。


『……ぇ? ここ、って……』


 目覚めた望子の視界に移ったのは、この世界での『いつもの光景』ではなく元の世界で八年間に亘って見てきた『いつもの光景』。


 朝起きてすぐ寝間着から着替えて、ランドセルに入れ忘れた物がないかと確認したり。


 学校から帰って来てすぐ宿題を始めたり。


 お母さんと一緒に作った三体のぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめて眠ったりする場所。


 そう、つまりは──。


『……わたしの、おへや……?』


 ──望子の部屋と全く同じ光景だった。


 ……否、全く同じではないかもしれない。


 何というか、こう──……脳や目に霞みでもかかっているかの様に全てが曖昧で、この部屋を誰よりも知っている望子だからこそ。


 漸く『部屋』だと認識出来る程度なのだ。


『なん、で……ゆめ? なの……?』


 望子は、それまで寝転がっていた柔らかいベッドから身体を起こし、これが夢なのか現実なのかを確かめるべく緩やかに歩き出す。


 転んでも出来るだけ怪我をしない様にと配慮された、ふかふかで水色のカーペットも。


 小学校に上がる前に、わざわざ座高や腕の長さまで測って特注で作ってもらった机も。


 普通はお祖父ちゃんやお祖母ちゃんに買ってもらうんだけど、と寂しげに微笑みつつ母が買い与えてくれた真っ赤なランドセルも。


 望子にとっては、その全てが鮮明で。


『ゆめ、じゃない……? かえって、これたってこと……? そっ、それじゃあ……っ!!』


 本当に──……もし本当に帰って来られたのだとしたら、この扉の先には……きっと。


『とびらを、あけて……かいだんを、おりたら……っ、おかあさん、おかあさんが──』


 この約半年の間、片時も忘れた事はなかった最愛の母親に逢えるのかもしれない──。


 ……そう考えて扉にかけた筈の手が。


『……っ』


 何故か、ぴたりと止まってしまった。


 母親に逢いたくない訳ではない。


 寧ろ逢いたくて仕方ないくらいなのに。


 どうしても、そこから先に進めない。


 その理由を望子は既に理解していた。


『いまは、まだ……かえっちゃ、だめなんだよ……おかあさんにも、あっちゃだめ……』


 ……そう、このまま自分だけが地球に戻って母親との再会を果たして幸せに暮らすというのは、あまりにも異世界で出来た仲間や友人、師匠などなどに不義理だと、たった八年しか生きていない少女が理解していたのだ。


 魔王を討ち倒し、この世界を救う──。


 自分は、その為だけに喚ばれたのだから。


 そんな風に忸怩たる思いで考え直し、その小さな手をドアノブから離した──その時。











《そうだね。 今はまだ、その時じゃない》

『……!? だ、だれ……!?』


 いつの間にか望子が眠っていたベッドに腰掛け、さも見知った仲であるかの様に優しく声音で話しかけてきた何某かに、びっくりしつつも自分なりに身構えた望子が振り返る。


 そこにいたのは、この空間と同じ様に顔や身体の輪郭が曖昧な、おそらく若年の男性。


 若年──……壮年? かもしれないが、その表情や髪色、瞳の色などは望子に似ていなくもなかったからか、それとなく警戒を解き。


 日本人だろうという事は分かっても、それ以上の事は分からない望子が困惑する中で。


《……あぁ、そうか。 僕の顔さえ知らないんだったね。 写真の一つでも残せたら良かったんだけど、それは叶わなかったからな……》

『しゃ、しゃしん……?』


 突如その男性が物悲しそうな顔をして、この世界には存在しない『写真』という技術の話を持ち出すとともに、まるで『自分だけが一方的に知っている』事実そのものを後悔している様な事を口にしたのもそうなのだが。


 それ以前に──。


(……あれ? そういえば、このこえって──)


 望子は、その声に聞き覚えがあった。


 あの時、初めて自分の中に誰かが居ると知った時に話しかけてきた声に似ている──。


『……わたしのなかに、いたひと……?』

《うん。 僕の名前は──》


 そう思い至った望子が、おそるおそる自分の中に居た誰かなのかと問うと、その男性はあっさりした返事で肯定し──……そして。


《──舞園勇人。 君のお父さんだよ、望子》

『……ぇ? お、おとうさん……?』

《話す機会はあったのに、ずっと黙っててごめんね。 どうしても明かせなかったんだよ》

『ほ、ほんとに……?』


 自らの名が舞園勇人であると。


 望子と血の繋がった実の父親であると明かし、もしかしたらと思ってはいたが母親がそうとは言っていなかった以上、判断に困っていた望子は疑問符を浮かべつつも歩み寄り。


『お、おとうさん、なの……? ほんと?』


 どうにも境界線が曖昧だった勇人の右手に自分の小さな手を重ねたのを皮切りに、そっと勇人が右手を望子の頬に添えただけで、もう望子の黒い瞳には透き通った涙が溜まる。


 触れるどころか見るのも初めてなのに、それでも血の繋がりを強く感じたからだ──。


《……まぁ簡単には信じられないよね。 柚乃ゆのは僕の素性も真実も、何一つ話してなかったみたいだし……あぁ、でも彼女を責めないであげてほしいな。 君を想っての事だからさ》

『ゆの……おかあさんの、なまえ……』


 そんな望子の涙を見て不安がらせてしまったと捉えた勇人が苦笑しつつも、この世界においては互いしか知らない筈の妻、或いは母の名を口にして、『父親の死』を隠していた事を許してあげてと告げてきた事によって。


 望子の心にあった不安は解消され──。


『お、おとうさん……っ』

《うん?》

『──おとうさぁん!』

《っと! 望子……?》


 ついに零れてしまった涙を拭う事さえせず勇人に抱きつき、ガナシア大陸一の港町で醤油に限りなく近い調味料を味わったあの時以来、溜まりに溜まった心情を吐露し始める。


『っく、ずっと、おかあさんと、ふたりでくらして……おとうさんは、いつか、かえってくるっていわれても、わかんなくて……っ』

《……うん》


 たった二人で、あの家に暮らしていた時から、八年間も待ち続けていた父親との邂逅。


『もしかし、たら……っ、ひ、う……おとうさんなんて、さいしょからいない、とか、もう、しんじゃってるのかもとか、おもって』

《……》


 もしかしたら──と子供ながらに感じていた父親の死が真実であったという重い事実。


『でも……おかあさんが、うそついてるなんて、そんなのいやだったから! だから──』


 その事実を母は、ずっと自分に隠していたのだとしってもなお母への想いは変わらないという、ある種の呪いめいた一途さなどなどが、どんどん言葉になって溢れてくる──。


 このまま、あと何十分でも話せそうだが。


《もういいんだよ、望子》

『ぇ……?』


 そんな望子の言葉の激流は、ふわりと優しく抱きしめ返してきた勇人によって遮られ。


《……僕の唯一の心残りは、こうやって君を抱きしめてあげられなかった事だったんだ》

『……!』

《だから今回、初めて父親らしい事が出来て嬉しかった──強く、賢く、優しく育ってくれてありがとう。 僕はそれだけで幸せだよ》

『う、うぅ……っ』

《……望子?》


 自分と同じ綺麗な黒髪にそっと手を添えつつ、それこそ千年前からずっと想い続けながらも決して叶えられなかった『親としての役目』を果たせた──……それだけでこの千年という時間が報われたと微笑む勇人の声は最早、望子の感情を堰き止めるダムを決壊させるのに充分すぎる効果を発揮していた様で。


『う、うぅぅ……うあぁああ……! おとうさん、おとうさん……! おとうさぁん……!』

《……っ、うん、うん……!》


 一見、望子の部屋の様でいて何もかもが曖昧な空間にはしばらくの間、望子の泣き声と勇人の慰めの声だけが響き続けていた──。

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