第320話 犠牲が要るというのなら──

『──ゴギャアァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!』


 漆黒の海原に轟いたのは、かの星見龍スターゲイズ・ドラゴンのそれに勝るとも劣らず、されどその殆どが樹木や鋼鉄を擦り合わせたり軋ませたりしたかの様な雑音ノイズの入り混じった大咆哮であり。


「──ぎゃーっはっはっはぁああああ!!」


 加えて、そんな大咆哮にも負けない声量でのイグノールの狂気的な嗤いとの協奏曲コンツェルトは。


「──みっ、耳がぁ……っ、揺れも酷くなってるし……! 何が、起こってるの……!?」


 引力と重力に抗い、ようやっと全員の治療を終えたカナタを聴覚や三半規管から震え上がらせるのに充分すぎる効力を持っていた。


 勿論、聖女である彼女だからこそ意識を保てているのであって、この場に普通の人族ヒューマンがいたなら間違いなく無事では済まない筈だ。


 そんな中、カナタと並び──正確には違うが──人族ヒューマンとして扱われる望子はといえば。


(かぎをにぎるのはゆうしゃだって、きゅーちゃんはいってたけど……どうしたらいいの?)


 先程のキューとのやりとりを思い返しながら、あの全なる邪神に対して自分に出来る事はあるのだろうかと幼いながらに思案する。



 倒さなければいけないというのは分かる。



 もしかしたら魔王より危険かもしれないというのも、こんな状況の中で呆けた様に上だけを見つめる水の女神の様子からも分かる。



 ……ただ、たった一つの懸念があった。



(すとらさんは、あの──……なんていったっけ、みずのじゃしんさんをとめようとしてた)


 それは、たった今この瞬間も望子の中に宿る風の邪神ストラの『ヒドラを解放してあげて』という意思を汲むべきなのかという事。


 別に、ストラから直接そう頼まれた訳ではなく、ただ直感的に望子がそう感じただけ。



 それでも──。



(たおすんじゃなくて、まずは──)


 討ち倒す事ではなく、まずはヒドラを解放する事こそが肝要なのではないか──と、幼いながらに結論に辿り着いた望子の聴覚を。


「──……嬢。 ミコ嬢」

『っ! な、なに?』


 何かを思案している事は看破しつつ、それでも先に自分の話を通すべきだと判断したローアの声が叩き、それに望子が反応すると。


「これからに移るのである。 その内容は──ミコ嬢と、運命之箱アンルーリーダイスの覚醒である」

『わたしと……これ?』


 最終工程──すなわち、これ以降は自分に出来る事などないとする、ローアからの『覚醒』なる言葉の意味自体はよく分かっておらずとも、ローアに多大なる信頼を置いている望子は、これといって疑う事も問い返す事もなく首元に下がった小さな立方体を見遣る。


 すると、ローアは無言で首肯しつつも『以前、話したとは思うのであるが』と前置き。


運命之箱アンルーリーダイスの覚醒の為には、あと二つの魔術を込める必要があるが……だからといって数合わせの貧弱な魔術を入れては意味がない」


 そもそも、『運命アンルーリー』を『禁忌パンドラーズ』へ覚醒させる為には六つの魔術が必要であり、これまでの四つ全てが超級魔術である事を踏まえ。


 残りの二つもそれに並ぶ、もしくは超える力を持つ魔術でなければ意味はなく、もしかすると覚醒しないかもしれないと推測する。


 ……実のところ、そんな事はなく別に超級である必要はないのだが──……まぁ、魔王討伐が至上目的なのだから間違ってはない。



 強い力を得るに越した事はないのだし。



「そこで……サラーキア、お主が水化アクアナイズをミコ嬢に授けよ。 水の女神なら可能であろう?」

『……その為に、留まらせていたのですね』


 ゆえにこそ、ハピやキュー以上の力を持つというのに敢えて何も言わず船に留まらせていた水の女神に対し、ローアは水属性の超級魔術たる水化アクアナイズを五つ目として望子にと命じ。


『……いいでしょう。 それで、この絶望的な運命を文字通り変えられるとよいのですが』

『……え、もうつかえるようになったの?』

『えぇ、すぐに使いこなせるでしょう。 これは確信です──もそうでしたからね』

『……?』


 女神だからなのか、それとも単に察しが良かったのかは分からないが、ローアの言葉の全てを即座に理解したサラーキアは、これといって反論する事もなく望子に手を伸ばす。


 次の瞬間、運命之箱アンルーリーダイスがこれまでにない程に強い紺碧の光を放ったかと思えば、もう既に水化アクアナイズを込め終えたのだと告げたサラーキアの瞳は、どう見ても望子を見ていなかった。



 望子の中にいる《それ》だけを見ていた。



 当の望子は気づいていなかったが──。



「……では、もう一つの魔術に関してであるが──……フライア、ヒューゴ。 『あれ』をミコ嬢に授ける為、となってくれぬか?」

「「……!」」

『いしずえ、ってなに……?』


 一方、既に女神から視線を外していたローアはといえば、『あれ』とぼかした何かについての話を振るとともに、どういう意図からなのか『いしずえ』となれという縁起でもない声をかけ、その意図を望子が全く掴めていない中で、フライアとヒューゴは目を見開く──。



 ……この時点で全てを察していたからだ。



「前提として我々魔族は、その位階に関係なく『魔化デモナイズ』と呼ばれる上級魔術を扱う事が出来る。 他者に対してのみ行使可能な魔術を」

『でも、ないず……?』


 そんな三人の機微を見たローアは、まずは全ての鍵となる望子の疑問を解消すべく、そもそもの前提として魔族という種が、たとえ下級であろうと扱えるという魔化デモナイズなる上級魔術の存在を語り、それに望子が問い返すと。


「その効力は──……『対象の魔族化』。 覚えがあるのでは? サーカ大森林で魔化デモナイズを受けた蜘蛛人アラクネに遭遇したと聞いているのである」

『くもの、おねえさん──あれ? でも……』


 旅の最中、ウルから聞いたらしいサーカ大森林の主、蜘蛛人アラクネのウェバリエが陥っていた何らかの『洗脳状態』──魔王の側近デクストラが施したものだ──こそ、その魔化デモナイズと呼ばれる魔術の影響を受けて半魔族化状態にあったせいだと明かし、それを聞いて望子は納得したが。


 それはそれとして、じゃあ何故ウェバリエの身体は攻撃を受けたくらいで元に戻ったのかという疑問を幼いながらに抱いたところ。


「しかし先程も申した様に運命之箱アンルーリーダイスには超級魔術のみを込めておきたい、その為に其奴らの命を使い──『魔化デモナイズ』を『悪化イビルナイズ』へ昇華させる必要がある。 正真正銘の超級魔術へ」

『……え? いのち、って──えぇっ!?』

「「……」」


 どうやら魔化デモナイズの上には、そのまま完全上位互換となる『悪化イビルナイズ』という名の超級魔術が存在するらしく、そちらは術者でなければ決して解除出来ないと補足しつつ、その境地に至る為には術者以外の魔族の命──今回で言えば現状、何の役にも立てていないフライアとヒューゴの犠牲が必要になると真顔で語り。


 やはりか──と、ある程度の察しがついていた二体はともかく、まさかローアがそんな事を言うなど思ってもみなかった望子は、これでもかという程に黄緑色の瞳を見開いた。


 おそらく、いや間違いなく反対されるだろう──と、ローアも分かってはいたものの。


「──ミコ嬢、悪いが議論の余地はない」

『い、いやだよ! そんなのいやだ!!』

「「……」」


 最早、望子の意見を聞いている暇などないのだと、ローアが突き放す様に低い声音で告げたが、ローアのやろうとしている事を理解した望子は首をぶんぶん振って猛反対する。


 一緒に居た時間こそ、ウルたち三人の亜人ぬいぐるみやレプター、ローア、カナタ、キュー、ポルネ、カリマといった勇者一行には劣れど、そんなものは望子にとっては何の関係もない。


 たとえ数日だったとしても、ご飯を食べたり話をしたりしたのなら、それはもう望子にとっては立派な『おともだち』なのだから。


 それを知ってか知らずか、フライアとヒューゴは揃って顔を見合わせてから頷き合い。


「……ミコ様。 私は、ローガン殿の提案を受けようと思っています。 これまで私は、ミコ様に言えない様な悪事を散々働いてきたのです。 もし、その償いになるのなら私は──」

『だめ、だめだよ、そんな──』


 まるで親が子に言い聞かせるかの様な優しさと、それでいて自らの罪を懺悔するかの様な悔恨の念を持って、フライアが頭を垂れつつ『覚悟は出来ている』と口にするも、やはり望子は決して首を縦に振ろうとはしない。


「……勿論、僕の命も使ってください。 フライアだけを──……いえ、姉貴分だけを犠牲になんて不義理な真似、僕には出来ません」

「ヒューゴ……」

「……殊勝な事であるな」


 しかし、そこへ追い討ちをかけるかの如く差し込まれたヒューゴの決意の言葉は、ローアの提案を両者が受け入れたのだと断じざるを得ず、ゆえにこそローアは珍しく褒めた。


 犠牲が要るというのなら、この身こそが差し出されるべきだという事を──そして何より、おそらくであるが望子が元の世界に帰る為のを、この二人は理解した上で礎となる事を受け入れたのだろうから。


『ろーちゃん!! おねがいやめて──』


 そんな事を知る由もない望子は、どうにかしてローアを止める為に風の邪神の力を行使する事も考えて、その手を伸ばしたのだが。



 その手が──……届く事はなかった。



「では──……さらばだ、同胞たちよ」

「「どうか、ご武運を──」」


 瞬間、二体に永遠の別れの言葉を贈るとともに、それぞれの肩に手を置くやいなや二体の身体が薄紫色の眩い光に包まれ、その光は次第に二体の身体そのものを侵蝕していき。


 フライアとヒューゴは薄紫色の閃光の粒子となって、ローアの小さな手に収まり──。


『ぁ、あぁ、うあぁぁぁ……っ!』


 その妖しく輝く光が小さな小さな立方体に込められたのを見届けた望子は、それをぎゅっと握りしめつつ膝をつき──……いた。



 ……もう二度と、あの二体には逢えない。



 そう思うと、涙が止まらなかったのだ。











 勇者が魔族を偲んで涙を流すその光景を。



『……』



 女神は、どんな感情で見ていたのだろう。

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