第316話 歯牙にもかけぬ
『──……ど、どうしてわたしに……っ』
何故、水の女神を差し置いて自分に声をかけてきたのか分からない望子の様子からも。
やはり、『異界の勇者』という言葉が望子自身を指していると思い込んでいる事、望子の中にいる《それ》の存在を望子自身は忘れている事が、ありありと伝わってくる──。
……いや、もう少し正確に言うのならば。
記憶の片隅にあるにはあるが、この場面で必要だとは夢にも思っていないというだけ。
『狙いは望子、という事かしら……?』
『まぁ可愛いからね、みこは……』
「そういう問題か……?」
尤も前者に関してのみ言うなら、キューを除く一行や魔族たちも同じ様に考えていた。
同じといっても、フィンは普段通りだが。
「……?」
また、ローアだけは僅かな違和感に近い何かを抱き首をかしげていたものの、それが確信とならない限り、やはり彼女は口を噤む。
以前もウルに注意されたが、それでも千年以上も前からの悪癖は抜けきらないらしい。
そんな中、単なる──単なるというのも変だが──水の邪神だった頃よりも、その上背だけは小さくなっていた『全なる邪神』、アザトートはゆっくり甲板に舞い降りてから。
『……貴様の様な
『な、なにいって──』
やはり視線は望子へと向けたまま、されど風の邪神の姿と力を得ている彼女を猿真似と揶揄するくらいには興味がないと暗に告げた上で、《それ》の存在に言及してきたのだ。
先述した様に望子も《それ》が自分の中にいる事自体には気づいているが、どうやっても自分からアプローチ出来ないと分かってからは考えない様にしていた為に、どうして今になって──という疑念に支配されていた。
しかし、そんな疑念を解消する間も与えられぬまま、望子至上主義の
『懲りないねって言おうと思ったけど……よく考えたらもう
『フィン!? 待って──』
最早、転移と呼んで差し支えない程の速度で宙を泳ぎ、アザトートの背後を取って今にも攻撃を加えんとしていたフィンを、その眼で全なる邪神を視たハピは止めようとする。
当然、自分たちを上回る力を持っている事を読み取った彼女がアザトートを警戒した為だ、と思うかもしれないが──実のところ。
……名前以外、何も読み取れてはいない。
読み取れてはいないからこそ、恐ろしい。
これから何が起こるのか、そんなたった一つの疑問さえ解消させてくれないのだから。
『だったらもっかい教えてあげるよ!! みこを馬鹿にする奴は絶対許さないってね!!』
そんなハピの葛藤など露知らず、
かつて未完成の状態で魔王軍幹部筆頭の腕と翼を消し飛ばした事もあり、この状態のフィンは最早、水の
そして、フィンは充填を終えた三つの水流を決して三素勇艦には当てない様に、アザトートを存在ごと抹消するべく解き放ったが。
『──……その程度か、
『えっ──』
──……通用しなかった。
フィンと同格に近しい水の女神の更に遥か上を行く、アザトートには通用しなかった。
……いや、それでも。
通用しないだけなら、まだよかったのに。
『──……っ、か、は……っ?」
『い……っ、いるかさん!?』
歯牙にもかけないどころか、アザトートはこの一瞬で反撃までもを成功させており、あろう事か彼女の身体の内側から突き出る様にして出現した数本のドス黒い水の槍は、左腕を消し飛ばし、腹に大きな穴を開け、下半身となる海豚の尾鰭を真紅に染め上げて──。
きらきらと煌めいていた紺碧の瞳も、その片方があった場所から水の槍が生えていた。
今はもう、ぽっかりと穴を開けているが。
そんな凄惨極まる光景を目の当たりにした望子は、アザトートの横を通過する形でフィンに駆け寄るが、アザトートは止めもせず。
『……いや、よくやったと称賛すべきか。 我が知覚範囲をすり抜けた上、並の
それどころか、あまつさえ自分を殺そうとしたフィンの実力や胆力を褒め称えるかの様な口ぶりとともに、ぱちぱちと拍手をする。
……心にもない、そんな乾いた拍手を。
その証拠に、フィンの
『──いるかさん! だいじょうぶ!?』
「み、みこ……あり、がと……っ」
『かっ、かなさん! いるかさんを──』
そんなアザトートとは対照的に、わたわたと駆け寄った望子の腕の中で苦しげな笑みを浮かべて礼を述べるフィンの身体からは既に恐化が解除されており、とても戦闘の続行が可能とは思えず、それどころか生存も──。
カリマやポルネ、そして何よりウルがフィンと同じくらい危険な状態にあると望子も分かっていたが、それでもとカナタにフィンの治療をお願いしようとした──……その時。
『望子! 貴女はフィンとカナタと……それから魔族たちも守ってあげて! アザトートは私たち──……と、女神様が相手をするわ!』
『え、う、うん……っ』
すらりとした左脚に継戦能力を高める触媒である羽休止木を装着したハピが、アザトートを牽制する意味でも、視界を遮る意味でも濃い黄緑色の竜巻を起こしつつ指示を出し。
望子としては前に出て戦うべきだ──というより、皆を守る為に戦わなければいけないと考えていたが、そう言われては仕方ない。
そっと、本当にそっと満身創痍のフィンを抱きかかえて、カナタの下へ飛んでいく中。
『あれの、相手を──……えぇ、えぇそうですね。 やらなければ、ならないんですよね』
サラーキアはサラーキアで何やらぶつぶつと言い聞かせる様に呟いていたが、その言葉はついぞ誰の耳にも届く事はなかった──。
「悪ぃが俺は連携なんて出来ねぇからな! 先にぶっ殺しちまったら後で詫びてやるよ!」
「っ、あたしも行く! もう治ったからな!』
「あっ、ちょっと!?」
そんな緊迫した状況の中、元より誰かとの協力など千年前からした経験もないイグノールと、どうにかこうにか
そこらの上級魔族でさえ間違いなく怖気付くであろう、ウルたちの鬼気迫る表情にも。
『……威勢だけの羽虫と駄犬、構ってやるのも面倒だが──……一度だけ相手をしてやるのも一興か。 己の無知と無力を噛み締めよ』
『『誰が羽虫(駄犬)だぁ!!』』
当のアザトートは、あくまでも余裕を崩さず──雑魚相手に余裕を崩す理由も意味もない為──『ふむ』と唸って露骨に煽り、その煽りを揃って真に受けたウルたちは、アザトートに肉薄する事で二対一の接近戦を挑む。
爪を薙ぎ、牙を打ち鳴らし、翼を広げ、尾を振り回し、炎を纏い、そして──吼える。
一見すると互角に渡り合えている様にも見えなくはないが──……当然の事ながら、アザトートが手加減しているからというだけ。
(一行で最も実力の高いフィン嬢でも歯が立たぬという事は──あの者たちでは、
それをはっきり看破していたローアはといえば、フィンの攻撃が通用せず、そしてフィンが一蹴された時点で、ウルとイグノールが協力してもどうにもならないと踏んでおり。
(……超級魔術の行使もやむなしか。 多少なり命は縮むであろうが──……致し方あるまい)
だからといって、このまま放置すればあの二人もまたフィンと同じ末路を辿る事になるのは目に見えている為、支援しようと──。
──した、まさにその瞬間だった。
『光栄に思うがいい。 全なる邪神の力の一端に、貴様ら風情が触れられるのだから──』
「っ、いかん! レプ嬢、結界の強度を──」
またも破裂音の様なものが轟き、ローアが驚いてそちらを見遣ると、そこではウルたちの相手に飽いたらしいアザトートが二人を弾き飛ばしつつ攻勢に移らんとしており、まず間違いなく想像を超える一撃がくると察した彼女は、レプターに結界の強度を上げる様に指示を出そうとしたが──もう、遅かった。
アザトートはその右腕を──正確には右腕の様な触手を前に伸ばし、そして口を開く。
『遍くを黒に染めよ──
『はぁっ!? そ、そりゃあ──』
その口から溢れ出たのは、あろう事かフィンが行使したばかりの魔術の名であり、その事実に勘づいたウルが驚愕したのも束の間。
「──が、ふ……っ」
「く、そがぁ……っ」
水流──と呼ぶにはあまりにも凶悪な、まるで星一つを両断するが如き超巨大規模な漆黒の水の斬撃で、ウルとイグノールは多少なり差異こそあれ上半身と下半身がお別れし。
『あ、い、いぐさん? おおかみさん……?』
「ミコ嬢! 腑抜けている場合ではない!!」
『ぇ──』
それを垣間見てしまった望子が最早、叫ぶ事さえ出来ずに呆けてしまっていたのを見たローアは、これまでならば絶対にしなかった筈の『叱責』という形で望子を正気に戻す。
それもその筈、少し浮かんだ状態から放たれた斬撃は、ウルたちを狙ったものでなく。
「まさか、この船ごと私たちを……!?」
「レプ嬢!!」
「分かってる!! っ、おぉおおおおっ!!」
その後ろ、この瞬間も一行が乗っている船を両断する為だと悟ったカナタが目を見開く中、ローアは改めてレプターに声を飛ばし。
言われるまでもない──そう言わんばかりに、レプターは
多少、生命力を削ってでも──。
「く、あ"ぁああ……っ!! やらせん、やらせはせんぞ……ミコ様と、この船は私が──」
植物の女神ダイアナからの加護を受けて以降、
更に、それでも防ぎきれない場合は魔力に加えて生命力まで注ぎ込む事で、より一層の防御力の付与や範囲の拡大が可能となった。
それこそ、フィンの一撃も防ぐくらいに。
……それなのに。
「っ、ぐ、ぅぅ……っ!! 駄目、か──」
──……防ぎきれない。
このままでは自分はともかく、何があっても守ると決めた望子まで取り返しのつかない事になってしまう──そう判断した彼女は。
(本意ではないが──止むを得ん……っ!!)
自らの正義──勇者に付き、この世界を救うという意志に背いてでも望子を守る為、世界を……否、大海を犠牲にする事に決めた。
そこにどれだけの生物、或いは
「──……っ!! う、おぉおおあああああああああああああああああああああっ!!!」
斬撃を、船を下にある海へ受け流した。
簡単に言うが、これは彼女だから出来た事であり他の
『……大したものだ、あれを受けて原型を保っているとは──……だがもう終わりだな』
『う、うみが、われて……っ』
「お、落ち──」
それを分かっていたからこそ、アザトートは今度こそ本当に称賛の眼差しと言葉を、もう限界だった様で力なく甲板に倒れるレプターに向けるも、そんな事に構っている余裕は一行になく、まるで世界そのものに亀裂が入ったかの如く縦に割れた海の中心にあった船は、ぽっかりと口を開けた海に落ちていく。
この危機的状況を何とか出来そうなのは。
ローア、キュー、ハピ、そして望子の四人だけだが、やはりアザトートの興味や視線はその四人ではなく、望子の中の存在にあり。
『……さぁ、どうする? この絶望的状況、貴様が出てこなければどうにもならんぞ──』
……ただ、そう呟いていた。
まるで、《それ》を待っているかの様に。
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