第298話 願ってもない乱入

 ローアたちが望子の力で幻夢境ドリームランドへ転移させられる数分前、互いに臨戦態勢を整え終えていたウル、イグノール──そして水の邪神。


『──……忠告しておくわ、人狼ワーウルフ

『あ?』


 今にも戦いの幕が開かんとする中、何の突拍子もなく語りかける様に口を利いたヒドラの妙に優しげな声音に、ウルは警戒を示す。


 忠告と言っても碌なものではない──と分かりきっているからこその警戒だったが、そんな彼女に構う事なくヒドラは話を続ける。


『そこの羽虫だけは絶対に此処で始末するけれど──私、貴女には特に怨みなんてないのよね。 だから条件次第で見逃してあげるわ』

『条件だぁ……?』


 とはいえ、どうやら彼女の意識はウルだけでなくイグノールにも向けられており、およそ十年にもわたって海を汚染し続けた彼はともかく、これといって彼女に何かをした訳でもないウルには怨恨の意思など全く以てなく。


 これから提示する『条件』を呑んでくれるのであれば、ウルだけは見逃してやってもいいという随分と上から目線な言葉をかけた。


(……生ける災害あれで手一杯になるでしょうし)


 尤も、本来なら『羽虫』などと呼べない目の前の魔族きょうしゃを相手取るにあたり、ウルという第三者の介入を避ける意味もあった様だが。


『そう難しい事じゃないわよ? 私の元眷属ファミリアたちと、あの人魚マーメイドを渡しなさい。 そして──』


 そんな中、訝しみ過ぎて途轍もなく怖い顔になっているウルを尻目に、ヒドラはブラインドに指をかけ窓の外を見るかの様な簡素な仕草であちらの世界を覗きつつ、そこに映るカリマとポルネ、フィンを譲渡せよと言い。


『同じ様にあちらにいる、あの小さな勇者の命も貰うから。 ストラを取り戻す為に──』


 更にはあちらの世界で今、風の邪神の姿をとっている幼い召喚勇者を視界に映したうえで、カリマとポルネの支配権を奇妙な力で奪った望子の命を奪い、ストラとの邂逅をと。



 そんな条件を口にし終わろうとした時。











『──っ!? あ、あつ……っ!?』


 突如、先程が彼女が力を解放させた影響で黒く染まっていた海が何の前触れもなく沸騰し、そして脈動し始めた事によって、まるで漆黒の溶岩地帯の様になった海から発せられた超高温の熱気でヒドラは軽い火傷を負う。



 しかし、そんなものはまだマシな方で。



『『『ヴュア"ァアアアア……ッ!?』』』

『あ、貴方たち……っ』


 沸騰した海に接していた──というより海そのものと称しても間違いではない水棲主義アクアプリンシパルたちは、その液体で出来た身体の唐突な温度の変化に耐え切れずに次から次へと消滅し。


(凄ぇな、あいつら海ごと茹だってやがる)


 自分の足場たる水で出来た龍の背中もまた沸騰しているのに、さも何でもないかの様に足をつけて立っているイグノールは、あれだけ大量に姿を現していた魔物たちが殆ど消滅した事実に、そこそこ素直に感心していた。


 ヒドラと違い、イグノールが全く以て驚いていないのは『原因』を把握していたから。



 そして『原因』は一歩、また一歩と進み。



『……前二つだけなら呑んでやっても良かったんだ──……そもそも、あたしに戦いを放棄するつもりなんざねぇって点を除けばな』

『……気に入らないのは、後者かしら?』


 この現象の原因──もとい恐化きょうかを行使したままのウルは、そうして歩くたびに蒸発する足場のせいで水蒸気を纏ったかの様な姿になりながらも、その真紅の瞳でヒドラを睨む。


 正直、フィンはともかくカリマとポルネにはそこまで思い入れもないし、フィンに関しても『自分で何とかするだろ』という、ある意味では信頼と言えなくもない投げやりな期待がある為、別に呑んでやってもよかった。


『当たり前だろうがぁ!! 言うに事欠いてミコを殺すだと!? ふざけんのも大概にしやがれ! おら、とっととかかって来いやぁ!!』

『っ、この私からの忠告を──』


 だが、いくら自分より強いとは言っても望子だけは事情が違うし、ましてや始末するなどと言われると彼女としては『否』と跳ね除ける以外の選択肢など最初から存在しない。


 フィン、カリマ、ポルネも庇う事になってしまったが──……まぁ、それはついでだ。


 ヒドラは、そんな人狼ワーウルフからの返答に苛つきこそしたものの、そもそも『戦力を少しでも削る事が出来れば御の字』程度に捉えていた為、即座に表情や声音に冷静さを取り戻し。


『……まぁいいわ、それならそれで死骸が二つ増えるだけだもの! さぁ始めましょ──』


 交渉には失敗したが、だとしても自分のやる事は変わらない──そう言いたげに右手を掲げ、それを合図にの水棲主義たちが再び姿を現し、いよいよ本格的に水の邪神との戦いが幕を開けるのかと思われた。











 ──……否。



 ここで、あちらの世界──望子たちの側で起きていた出来事を振り返ってみてほしい。



 ヒドラがブラインドから覗くかの様にしてあちらを見ていたのと同じく、望子もまた脳裏に映す形で幻夢境ドリームランドを俯瞰しており、そしてローアたち三人をこちらへ送り込んだのだ。



 そう、それがヒドラとウルの決裂確実な交渉が始まるちょうど数分前の出来事である。



 そして今、その『数分』が経過した──。



『──っ!?』

「『ん?』」


 瞬間、今にもごぽごぽと沸騰する水棲主義アクアプリンシパルたちを仕向けようとしていたヒドラの意識が二人とは全く別の方角を向いた事に、ウルだけでなくイグノールまでもが疑問を覚える。


 そんな二人の懐疑的な視線にも一切構う事なく、ヒドラは先刻からひしひしと感じ取り続けている懐かしい感覚に昏い笑みを湛え。


(この感覚は……! どうして、どうやって来たのかは知らないけれど、願ってもない乱入だわ! をもう一度眷属ファミリアにすれば──)


 あの二人、つまりはカリマとポルネが何故か幻夢境ドリームランドに侵入した事を一瞬で察知し──尤も以前とは何かが違っている様にも感じていたが──ウルたちと戦う際の『手駒』を確保する目的で支配権を取り戻さんと画策する。


 ……二人のすぐ近くに、どうにも嫌な魔力をどろどろと纏った『何か』がいる事は察していたものの、それどころでないのも確か。



 ゆえに──。



『──はっ!? おい逃げんなこらぁ!!』

「……」


 逃げ出したと言われても仕方のないくらいの踵の返しっぷりに、ウルが怒声を轟かせながらも靴底辺りから噴出させた炎で飛行しつつ追いかける一方、イグノールは動かない。


(今のはローガンと──……あぁ、あの蛸と烏賊か? ったく、余計な茶々入れやがって……)


 それもその筈、彼はヒドラに少し遅れを取る形で幻夢境への侵入者の正体を看破しており、せっかく愉しい──きっと愉しくなるだろう、そうでなくては困る──戦いが始まる筈だったのにと憮然な表情を浮かべている。


 あの時の『ん?』という疑問の声は、ヒドラと同じく侵入を察したゆえのものだった。


 熱気で嗅覚が馬鹿になっているウルは、そんな事になど一切気がついていなかったが。


 その後、ヒドラが三人と合流するのを待ったうえで、『何か』を目論んでいる邪神の策を敢えて遂げさせ、それを正面から破るのも悪くはない、と彼は少しだけ考えたものの。


(……追いかけねぇのも変か……そんじゃあ横槍入れつつ追いかけっこと洒落込むかね)


 既にウルが追跡を始めている以上、自分だけがこの場に残っているのもおかしいし、あの人狼に美味しいところを奪われてしまう可能性を考慮するとそれは悪手かと考え直す。


「よっと」


 その為、彼は足場としていた龍の背を解除しつつ、とても下級魔族のそれとは思えない程の雄大さと凶悪さを併せ持つ漆黒の羽を広げ、ヒドラとウルをのんびり追う事にした。


 尤も──のんびりというのは彼の基準の中での『のんびり」であって、ごく一般的な感覚からすれば途轍もない速度ではあったが。


────────────────────


 当然、ローアがそれに気づかぬ訳もなく。



「──……彼奴が、こちらへ向かっている様であるな。 ウル嬢と、イグノールを伴って」

「「伴って……?」」

「戦闘行為ありきの追いかけっこチェイスと言い換えても良いのである。 これならお分かりか?」

「あぁ、それなら……」


 二人を海に下ろした後、興味深そうに触れていた海面の僅かな震えから、ヒドラたちの接近を感じ取ったローアの妙な言い回しに二人が抱いた疑問を、ローアはさらっと解決。



 その表情には、もう好奇心が見え見えだ。



「……迎え撃つ──……ンだよな?」

「それ以外の選択肢はない様に思うが」

「分かッちャいるンだが……」


 一方、『けじめをつける』と宣言して来た割には煮え切らない表情を浮かべているカリマの言葉に、ローアは何を今更とばかりの声を返したものの、それでも彼女の顔は暗い。


「分かるわよ、カリマ。 気持ちの問題よね」

「あァ、あの人と戦う事になるたァな……」


 そんな恋人の感情が手に取る様に理解出来ていたポルネの、『一緒になる為の力をくれた人との戦いに踏ん切りをつける事への難しさ』についてを悟った優しげな声に、カリマは頷きながら昔を思い返す様に目を細める。


 事実、あの時に邪神ヒドラが現れなければ二人は今でも違う海賊船の船長として仮初の敵対状態を維持し続ける事を強いられていた筈で。


「引き返しても一向に構わぬが、如何に?」

「「……」」


 それを察した──という訳では決してなかろうが、ローアが口にした『自分一人でも特に問題はない』という科白を受けた二人は迷いを見せたものの、すぐに首を横に振った。



 覚悟も決意も、とうに出来てはいたのだ。



 ただ、ほんの少し真実に臆病だっただけ。



「……そうであるか、ならば──」


 今度こそ、それを察したローアは納得したとばかりに首肯しつつ、ふと視線を逸らし。











「──備えよ」

「「え──」」


 小さな両の手に薄紫の魔力を充填し始めた事により、いまいち要領を得ない二人が疑問の声を上げたのも束の間、海は黒く染まる。


『『『ヴゥウウウウウウウウ──……オ"ォオオオオオオオオオオオオオッ!!!』』』

「「……っ!?」」

「ほぉ、これはこれは……」


 そう、つい先程までヒドラたちが居た海域と同じ現象を水棲主義アクアプリンシパルたち自体が引き起こした形となっており、より一層凶暴さを増した魔物たちの咆哮に、カリマとポルネが戦慄する一方、ローアは興味ありげに口を歪める。


 明らかに邪神の影響を強く受けた魔物、食指が動かない訳もなかったが、そんな彼女の興味は内一体の中から現れたものへと移る。


『随分、久しぶりに思えるわねぇ……きっと貴女たちもそうでしょう? カリマ、ポルネ』

「っ、やっぱり貴女が……っ!!」

「……邪神、だッた訳か」


 言うまでもなく、それは水を司る邪神たるヒドラの姿であり、あの時と変わらない彼女の姿を見た二人は動揺するとともに、よく理解もしないまま手を出してしまった邪悪な力の持ち主である彼女に確かな敵意を向ける。


『えぇそうよ、私はヒドラ。 水を司る──』


 それを知ってか知らずか、にやにやと昏い笑みを浮かべたヒドラが改めて自らの正体を二人に向けて宣言しようとした──その時。


『くっちゃべってる余裕があんのかおらぁああああああああああああああああっ!!!』

『っ!? い"、あ……っ!?』

「「ウル!?」」


 突如、会話を遮るかの如く真紅に煌めく業炎とともに乱入してきたのは他でもないウルであり、普通では追いつけない速度で人狼ワーウルフも魔族も振り切った筈だと思い込んでいたがゆえの不意の一撃に、ヒドラは大袈裟に怯み。



 突然の乱入にカリマやポルネも驚く中で。



「……また豪快な」



 ローアだけは、ちょっと感心していた。



 逆に凄いとさえ言えようか、その──。



 ──空気の読めなさたるや、と。

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