第294話 水底より出でしもの
現れた異形の女性は、ウルたちより遥かに大きい。
そもそも、どこまでが脚なのかもよく分からない身体である為、身長という概念が存在するかどうかさえ不明だが、おそらく三、四メートルくらいある筈だ。
その異形の女性──もとい水の邪神ヒドラは海藻の様な色合いの長い髪を掻き上げつつ、まず間違いなく自分に比肩する程の力を持つ
しかし、イグノールは『あぁ?』と邪神からの睨みなど何処吹く風とばかりの声を上げており、その反応が気に食わなかった彼女はそのまま視線を移し始め。
『──……な、何だよ、やろうってのか……?』
『……』
神の加護のお陰で間違いなく強くなったとはいっても、かつて風の邪神に手や足を出す前に吹き飛ばされて戦闘不能にされた身としては、どうしても警戒せずにいられないウルが身構えたのを見たヒドラは──。
『──……そう、そうよ……! その反応よ……!』
『は、はぁ……っ?』
何故かは知らないが、とても満足げな昏い笑みの裏に心なしか強い苛立ちをも感じさせる奇怪な表情を浮かべ、それに加えて全く要領を得ない発言をし始めた邪神に、ウルは困惑という困惑を表情と声に込める。
『……私は邪神よ? たった一柱で、この世界を滅ぼす事だって出来る存在なのよ? もっと畏れなさいな!』
『えぇ……?』
そんなウルの困惑を解消するつもりなど欠片もないだろうものの、まるで抑えきれない自己顕示欲を解放するかの様な口ぶりを以て『自分を畏怖しろ』と曰う邪神に対し、ウルは困惑の感情を更に強めてしまう。
……どうやら
「……もしかしなくても、それ俺に言ってんのか?」
『他に誰がいるというのよ、この羽虫が……!』
一方で、ウルがヒドラに畏れを感じているというのなら、その言葉はもしかせずとも自分に向けられたものなのか──と漸く悟ったイグノールが、さも他人事であるかの様に欠伸混じりで問いかけたところ、その通りだとばかりにヒドラは彼を睥睨し、そして罵る。
どうして、あれだけ邪神との戦闘に愉悦を期待していた彼が、ここまで興味なさげな態度をとっているのかといえば、ヒドラから溢れる小物感が原因であり。
「畏れろって言われてもなぁ──お前、
『……っ!』
また、よくよく思い返してみると彼女はかつて海で自分を発見した魔王軍から遁走した筈で、それを考えれば『そこまで強くないんじゃねぇか』と思い直し。
結果、興味が消え失せた事で欠伸すらも溢してしまった彼の発言に、ヒドラは如何にもな怒りに震える。
『あ、あの時は準備不足だっただけよ! ローガンとかいう小汚い羽虫が生意気にも私の気配を感知する技術を身につけたとか訳の分からない事を言うから──』
あの時──千体を優に超える魔王軍に居場所を察知された時、『邪神の気配を感知可能となったからには是非とも被験体にぃ!!』などと愉しそうに嗤っていた当時のローガンを見て気味が悪くなり、その魔族を殺す為には力不足だと感じた彼女はその場を去った。
尤も、ローガン以外の魔族であれば簡単に殲滅する事は出来た筈だし、そのローガンであっても命を賭して戦えば相討ち以上の結果を出す事も出来た筈──。
そうしなかったのは、まさに準備不足だったから。
当時でも充分すぎる力を有してはいたが、ヒドラを始めとした邪神たちの至上命題は世界の掌握である。
……そう。
かの恐るべき魔王コアノル=エルテンスと同じく。
つまり彼女たちにとっては、コアノルこそが自分たちの至上命題を叶えるまでに立ちはだかる最大にして最凶の障害であり、それを排除する為の力が必要で。
あの時、彼女は海上にて別の存在との高度な戦闘を繰り広げ、その為の力を奪い取らんとしていたのだ。
この世界における海神──『ラングルズ』の力を。
だが、それを思わぬ横槍で邪魔したのがローガンの率いる研究部隊を始めとした魔王軍であり、おおよそは優勢であったラングルズとの戦闘も半端に終わった為、力を奪う事さえ出来なかった彼女は遁走を選択。
本来なら神々の敵である魔族の軍勢をラングルズがその場で滅してしまわなかったのも、ヒドラとの戦闘で限界寸前まで追い詰められていたからに他ならず。
結局のところ、その場で命を失ってしまった者は誰一人としていなかった──という話だったのである。
ちなみに、ローガンは封印された時に邪神を感知する為の技術を失っており、それを再び可能とするべく研究を進めていたところにデクストラからの左遷命令が下ってしまい、ガナシア大陸に飛ばされたとの事。
しかし、そんな昔の出来事など彼には何の関係もなく、イグノールは『はっ』と彼女の過去を鼻で嗤い。
「雑魚の言い訳にしか聞こえねぇなぁ」
『っ、言うに事欠いて……!!』
戦闘行為における強弱という概念にまつわるものにしか興味を見出せない──美味なる食べ物にも興味はありそうだが──彼としてはヒドラの言い分も戯言としか思えず、それゆえの嘲笑に彼女は更なる怒気を覚え、それに伴い彼女を中心に海の色が変わっていく。
その心境を表しているかの如く、ドス黒い色に。
(……
その一方、間違いなく同じ戦場に立っている筈なのに蚊帳の外になりかけていたウルが、ふと
『──……もういいわ、くだらない話はここまでよ』
『っ!!』
「……」
ちょうど海が漆黒へと変色しきったくらいのタイミングで、ヒドラの口から真剣味と殺意を帯びた言葉が発せられた瞬間、ウルが明らかな怖気を覚えて臨戦態勢に移っても、イグノールの姿勢は全く変わらない。
ただ、ヒドラに対する嘲りの意思は消えている。
相手の力量差を問わず、この
それこそが、イグノールの戦いの美学であった。
『私だって暇じゃないの。 可愛い可愛い私の眷属たちは向こうにいるし、その元眷属を奪ってくれた──』
翻って、ヒドラはもうイグノールの態度になど構う事もなく、かつて勇者一行を襲った事もある不定形の魔物──
『小さな勇者も始末しないといけな──』
今や魔王コアノルと同じくらい始末しなければならない対象として認識している、あの幼い召喚勇者の処理を優先させるべく、さっさとウルやイグノールを始末する為にと
──その瞬間。
『──あ"?』
『っ!?』
突如、寸前まで怖気や焦燥に囚われていた筈のウルの口から、それらの感情とは対照的な怒気や殺意に塗れた低い声と──そして何より、ヒドラが発生させた
(……へぇ)
……イグノールは、何なら感心していた。
自らの褐色の肌をひりつかせる程の強い殺意についてもそうだが、あの少女一人を殺すと言われただけでここまで感情を揺らがせる事が出来る、この
感心というより、関心といった方がよさそうだが。
『……ミコの事を言ってんだよな? あいつに手ぇ出してみろ──……ぶち殺すだけじゃ済まねぇぞ……!』
『……凄んだって無駄よ、だって──』
そんな彼をよそに、ウルの口から発せられた怒りの臨界点を遥かに超えた脅迫の声に対して、ヒドラは一瞬でも彼女に怖気を感じた事実に屈辱を覚えつつ、されど顔には出さない様にあくまで尊大な態度を貫き。
『あちらの世界にも──
『……何だと?』
場面は、あちらの世界の望子たちへと移る──。
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