第293話 水龍の背を駆ける

 ──二人の体格は、ほぼほぼ変わらない。



 僅かに──ほんの僅かにイグノールが上背で勝る程度であり、おそらく筋肉量にも大差はないといえる。



 そんな二人を明確に分かつのは──。











 ──『経験値』。



 召喚勇者の所有物ぬいぐるみであり、それに加えて女神の加護を授かっているとはいえ、ウルの戦闘経験バトルキャリアは約半年。


 封印される前を含めると、およそ千年以上にもなる戦闘経験バトルキャリアを誇るイグノールと比べるのも馬鹿らしく。


 一撃一撃の火力自体は遜色ないとはいっても、それを活かしきる為の経験値の差は埋めようがない──。


 幻夢境ドリームランドに転移させられてから約数十分、生ける災害リビングカラミティを相手に様子見をする必要はないと判断したウルは最初から恐化きょうかを行使し、その身に赤熱した化石を纏う。


 火山も顔負けの熱量にも顔色一つ変えない彼女の足下で不規則にうねる波で象られた龍の背は、ウルが一歩、また一歩と踏みしめるたびに高温の蒸気を放ち。


 相手が魔王軍幹部でさえなければ、その高温の蒸気からなる火傷だけで倒せてしまうかもしれなかった。



 ……とはいえ、そんな推定に意味はない。



 大事なのは、ウルの目の前に立つ魔王軍幹部──イグノールに彼女の全力が通用するかどうかという事。


 現に、イグノールは自分の視界をも覆い尽くす高温の蒸気にも全く動じておらず、それどころか自分たちの戦闘を盛り上げる舞台装置の様にさえ感じており。


「──くぁははは!! やるじゃねぇか人狼ワーウルフ!! ミコ程じゃねぇが、そこそこ愉しめてるぜ俺はよぉ!!」

『……っ、褒め言葉にゃあ聞こえねぇなぁ!!』


 水で象られた何体もの巨龍を従え、また自分自身にも龍の爪を纏わせた彼の一撃を、ウルは同じく赤熱した暴君龍ティラノサウルスの爪で受け止めながらも彼の戯言を一蹴。


 尤も『ミコ程ではない』、『そこそこ』というのは冗談でも何でもなく、そういう意味では戯言と一蹴するのも違う気はするのだが──……それはさておき。


 実を言うと、ウルは彼の力の絡繰自体は理解出来ており、か細くも強度があり何とか肉眼で確認可能な薄紫色の糸を切断すれば、さっきから茶々を入れてくる水龍の群れはどうにか出来るという事は知っていた。


 だが、それでは全力の魔王軍幹部に勝利したという事にはならない筈だ──との考えから、ウルは只管に水龍が放つ水の砲弾を躱して本体をのみ狙い続ける。


 そんな彼女の爪、牙、尻尾──或いは咆哮とともに放出される業炎を以てしてもイグノールは揺るがず。


「悪かねぇ、悪かねぇが──まだ届かねぇなぁ!! そんなんじゃは永遠にお前のもんだぜ!!」

『やかましい! その余裕も今のうちだぞこらぁ!!』


 互いに大きな傷こそないが、それゆえに小さな傷が目立ってきたウルに対して挑発するかの様な叫びを浴びせた彼を、ウルは忌々しげに睥睨しつつ叫び返す。


 最弱の称号──とイグノールは叫んだものの、ウルは未だに自分が勇者一行で最弱だとは思っておらず。


 生ける災害リビングカラミティを相手に、ここまでの接近戦が可能なのは自分を含め至って少数──レプター、カリマ、ローア、そして超級魔術ありきの望子くらいの筈であり。


 少なくとも、あの聖女カナタには無理だろうというのに『希少性』という一点のみで自分が最弱認定されるのがいまいち納得いかない──それが本音だった。



 だからこそ、ウルは決して退く事はない。



 彼に最弱を取り消す旨の言を吐かせるまで──。



 一方で、生ける災害リビングカラミティが口にしていた『そこそこ愉しめている』という発言自体は嘘でも冗談でもなく、そこまで期待していなかった彼としては、その意外な愉悦に魔族特有の昏い笑みが溢れるのを止められない。


(あのっつー切り札を受けてみねぇ事には分かんねぇが……それ次第じゃ序列にも変更が必要かもなぁ)


 おそらく不安定な筈の足場を、しっかりと赤熱した脚で踏みしめ駆けてくる人狼ワーウルフの一撃を受け止め、その勢いのまま吐き出してきた業炎を龍如傀儡ドラグリオネットで生み出した蛇の様な水龍を絡ませ合う事で壁にし、相殺する。


 今のところ大きな傷は負っていないが、ほんの少しでも隙を見せれば必ずそこを突いてくる──これでも彼はウルが持つ戦闘の才覚センス自体は高く評価していた。



 たとえ、『召喚勇者の所有物だから』だとしても。



 また、その一方で彼は別の何かも気にかけており。



(にしても……まだ出てこねぇのか? ここが本当に邪神どもの世界だってんなら出てきてもいい筈だが──)


 この世界が邪神の邪神による邪神の為の世界──本当に幻夢境ドリームランドだというなら、あと一柱だけ生き残っている水の邪神が姿を現してもおかしくないというのに。



 ……幻夢境ドリームランドへの不法侵入者を咎める意味でも。



 かつて感じた邪神特有のおどろおどろしい気配は常に感じているが、それはあくまでも初めから感じていた幻夢境ドリームランド自体の空気感であり、邪神そのものの気配とは違う──と、イグノールは本能的に理解していた。


 だからこそ、こうしてウルとの激闘を繰り広げている間にも龍如傀儡ドラグリオネットの一部を『邪神探査』に割いたりしているのだが、それでも一向に見つかる気配はない。


(……まさか、あっちに居んのか? そういや、デクストラの奴が何か言ってた様な──……確か、『海の方から大きな怒りを感じる』とか何とか……だとすりゃあ)


 その事実から──そして、デクストラが忠告の様に言っていた『海から感じる怒り』とやらから、あちらの世界に邪神が居るのではという結論に至った彼は。


(──気兼ねなく戦えるって事じゃねぇかぁ!!」

『はっ!?』

「おっと。 悪ぃ悪ぃ、こっちの話だ」

『訳の分かんねぇ事を──っ!?』


 もう邪神探索に魔力を割く必要もなく、いきなり邪神が姿を現した時の為に警戒心を保ち続ける必要もないと判断して悦び、それが声に出ていた事にも気づかなかったせいで驚いていたウルに対し、イグノールは思ってもいない謝意を述べつつ糸を一箇所に集める。


(だが逆に言やぁ、あっちに残った奴らが邪神と戦う事になるし──そっちの方が愉しいんじゃねぇか……?)


 集束する薄紫の糸自体が次第に龍の姿へと変異していく中、幻夢境ドリームランドにとどまって人狼ワーウルフとの戦いを続けるよりも、あちらに戻してもらったうえで水の邪神との偶発的な──いや、最早必然的ともいえる遭遇を待った方が有益なのではないかと思う様になってきており。


(……そうだな、さっさと終わらせて戻してもらった方がよさそうだ。 そんで次は、いよいよ邪神との──)

『くそっ、やんなきゃ駄目か──』


 最終的な結論として、『火之迦具土ひのかぐつち』なる彼女の切り札をすぐにでも誘発させ、それをこの身で体感してから元の世界に戻り、そして本命である水の邪神との戦闘を心待ちにしようと志した──まさに、その時。











「『──っ!?』」



 二人は、ほぼ同時に何かの強い意思を感じ取った。



 その意思とは、まず間違いなく──『怒り』。



 ……いや、『怨み』や『憎しみ』というべきか。



 魔族特有の昏い魔力や気配が霞む程のドス黒い圧力にウルの肌は粟立ち、耳と尻尾が『ぴんっ』と立つ。


 イグノールはイグノールで表情にこそ動揺の色は見られないが、それでも消しかけていた警戒心を前面に押し出し、その強い意思の主を探すべく集中し──。











 ──見つけた。



「──……お前が、そうか」

『あ、あいつが……?』


 イグノールが最初に発見した事により、そんな彼に釣られる様にして意思の主を視界に映したウルが、その存在のあまりの異質さに困惑とも恐怖とも違う奇妙な感覚を覚える一方、少し離れた海上に見ゆる主は。


『──初めまして、私はヒドラ。 こちらでもあちらでも全ての水を司る邪神よ。 でも覚える必要はないわ』

「あぁ……? 何が言いてぇんだ」


 海藻の様な緑色と茶色の混ざった長い髪を揺らしつつ、カリマやポルネとは比べ物にならない程の触手が生えた下半身で海上に立ち、やたら主張が強く出るところが出た美しい上半身をアピールしながら名乗り。


 しかれど、その名を覚える必要はないなどと曰った事で、いまいち要領を得ないイグノールが問い返したところ、ヒドラは一気に怒りの意思を噴出させ──。











『当然でしょう? だって貴方たちなんかに──』











『──冥土の土産はもったいないもの』



 此処で必ず始末する──と、そう宣言してみせた。

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