第289話 邪なる力の制御

 扉の向こうから聞こえていた、あの水音──。



 先日までは、まるで幼児の如き見目だった我が魔王マイロードの八頭身と成り果てた美しい身体を、たった今この瞬間も這い回る様にして侵蝕する蔦状の溶岩が跳ね回る音だったのだと、デクストラが気づいたのも束の間。


「──……く、お"……っ」

「こ、コアノル様っ──」


 デクストラの顔を見て気が緩んだのか、それとも彼女の中で抵抗する二柱の邪神の力が増したのか──コアノルの身体に纏わりつく溶岩が放つ禍々しいまでの熱量や光が強まるとともに、その身体も形を変えて。


 最早、以前までの姿など何処へやらという魔王を見た側近は矢も盾もたまらず駆け寄ろうとしたのだが。


「──っ、近寄るでない!!」

「っ!?」


 瞬間、何とか溶岩の一部を身体の中に抑え込みつつ身体の変化自体も気力で止めた魔王からの、『近寄るな』という激昂にも近い叫びを受けた彼女が、びっくりしたというより拒絶された事に動揺を隠せない中。


「……今でこそ妾にしか牙を剥いておらんが、いつ妾以外の何かにまで侵蝕せんとも限らん──よいな?」

「……それは、そうでしょうが……」


 これでもかと息を切らしたコアノルは、デクストラだけでなく魔族領に棲まう全ての同胞の為を思って遠ざけようとしている──その事自体は分かるものの。


 だからといって、このまま放置して状況が好転する様には思えないと言わんばかりに魔王を慮ると──。


「……それより其方、何か用があったのじゃろう?」

「えっ、えぇ、イグノールの事で──」


 当のコアノルは、まるで立場が逆転したかの様に側近を気遣い、この寝屋を訪れた理由を問うてきた為。


 呆気に取られながらも、デクストラは『イグノールが反旗を翻した』という彼女にとっては想定内の、されど魔王にとってもそうであるかは分からない報告をするべく姿勢を正し懐から交信珠玉コルタルを取り出さんと。



 ──したのだろうが。











「入るか否か扉の向こうで逡巡しておったくらいじゃしな。 わざわざ耳まで当てて──のぅ、我が右腕よ」

「は──え……っ!? な、何故それを……っ!!」


 唐突に、あまりにも唐突に我が魔王マイロードより告げられた否定のしようもない恥ずべき事実に、その整いに整った褐色の顔を分かりやすく赤らめ焦燥を露わにする。


 まさか、ほんの少し後ろにある扉の向こうでの感情の揺れを知られているとは思ってもみなかったから。


「……抵抗の憂き目に遭っておるとはいえ、その力は既に妾の物じゃ。 かの土の邪神が誇っておった力の影響で、どの様な物に化けるも溶け合うも思うがまま」

「……まさか、もう城中に……?」


 しかし、コアノルはそんな側近にも構う事なく息を整えながら、かの土を司る邪神──ナイラが有していた固有の能力であるところの『無貌』、決まった姿を持たず如何なる形にもなれるという力を活かして、この寝屋の扉と同化する事で把握していたのだと語り。


 それを先読み──というより深読みしたデクストラは、もしや既に魔王城内で発生している事象全てを手に取る様に把握しておられるのかとの憶測を口にするも、コアノルはそれを首を横に振る事で否定しつつ。


「そこまでではない、この寝屋だけじゃ。 ゆえに其方が、イグノールについての何を報告せんとしておるのかは知らぬ。 朗報ではないというのは分かるがのぅ」

「……えぇ、ご賢察の通りで──」


 流石に城中とはいかず、まだ自分の寝屋とその周辺にしか及ばぬ為、イグノールについての何かの報告とやらの内容までは分からない──十中八九、朗報ではないという事は察せられていても──と力ない苦笑いとともに告げたところ、デクストラは気を取り直し。


 魔王軍三幹部が一体、生ける災害リビングカラミティの謀反と召喚勇者一行が間もなく魔族領にやってくる事実を報告した。



 報告後、側近は我が魔王マイロードの反応を待つ──。



 哀しむ──という事はないだろうが、それでも怒りを発露する可能性は充分にあると思っており、これまでの魔王ならまだしも今の魔王は二柱の邪神の力を手中に収めている為、強さという点では計り知れない。


 そんな彼女が怒りの感情そのままに力を解き放ったりしようものなら、この城が崩壊するだけでは飽き足らず魔族領そのものまでもが主によって滅びかねず。


 だからこそ、そうなった時は命を賭してでも止めなければ──とデクストラは図らずも身構えていたが。


「──……まぁ、そういう事もあるじゃろうな」

「……はっ?」


 彼女の覚悟とは裏腹に、コアノルの口から漏れたのは諦めにも似た言葉と溜息であり、それが完全に想定外だったデクストラが疑問符とともに声を発するも。


「……ローガンという前例があったからの。 あれとイグノールは似ても似つかんが、かつて妾が生み出した同胞の中では──という点では同じ。 こういう事態も予想しておらんかった訳ではないのじゃ」

「な、成る程……では、あれへの処置も既に?」


 コアノルは、これといって表情や声音を崩す事もなく、イグノールよりも先に勇者の仲間と成り果てた上級魔族──ローガンの存在について言及し、それを考えるなら彼女と同じく『魔族の異分子』であるイグノールが同じ末路を辿るのは、ありえない話ではなく。


 とうに自分と同じ推測を──とデクストラは感銘を受けていたものの、そういう事であれば既にイグノールへの処置も考えついておられるのかと問いかける。


 すると、その瞬間──唐突にコアノルの表情から感情という感情が抜け落ち、その異常な変化に圧されでもしたのか邪神の力さえ鳴りを潜めてしまう一方で。


「妾は、あらかじめ言うておったじゃろう? 『ミコに傷をつける事は許さん』と。 ヒューゴからの報告が確かならば、ミコを瀕死に追いやった──そうじゃの」

「は、はい。 その様で……」


 その姿すらも、デクストラが見慣れている幼い中にも妖艶さのあるものとなった魔王から半年程前に受けた、『ミコを傷つけようものなら、たとえ同胞でも幹部連中でも我が右腕でも容赦なく殺す』──なる警告を、イグノールは凶器と化した己の骨で望子のお腹を突き破るという愚行で振り切り、それをヒューゴから聞いたデクストラはコアノルへと伝えていたらしく。


 明らかに、その声音が今までに聞いたどの声よりも低い事を察したデクストラは、コアノルの二の句を只管に待ち、そして漸く口を開いた魔王から告げられた言葉は、デクストラにとって予想通りの一言だった。











「──殺せ。 命を持ってしまった事を後悔させよ」

「……っ」



 そう、裏切り者──延いては違反者への処分命令。



 これだけ執着しているのだから、おそらく殺せとの命令が下るのは間違いない──デクストラもそう思ってはいたが、そこには一つ予想外な事もあった様で。


(……私に、イグノールを殺せと命じられている……)


 千年を超える長い付き合いだから分かる、コアノルの一言に込められた強い殺意──それを確実に叶える為に、『魔王の側近そなたが殺せ』と命じてきたのである。


 確かに、イグノールは殲滅力だけならば魔王軍最強であり、デクストラでさえ全く以て敵う余地はない。


 しかし、それはあくまでも正面切って戦う場合。


 魔王軍の誰よりも神算鬼謀に長けた彼女には彼女なりの戦法があり、イグノールに不利な状況を作り出す事が出来れば傷の一つも負わず制圧する自信はある。


 彼の殲滅力を考えれば数で押すのが無謀であるのは自明の理──要は、量より質なのだと彼女は理解し。


「──……仰せのままに。 我が魔王マイロード


 こうして恭しく片膝をついて頭を下げている間でさえも、イグノールを罠にかける為の策を練っていた。


 そして、そのまま寝屋を後にせんとしたのだが。


「……あぁ、そうじゃ。 デクストラよ」

「! はっ」


 突然、背後から声をかけられた事で以前の『精神に作用する黒雷』の痛みがフラッシュバックした彼女は咄嗟に振り向き片膝をつくが、そういう感じはなく。


「妾は今この様な状態じゃし、の調教と──それから、の調整は全て其方に一任する。 よいな?」

「……!」


 やはり先程までの威圧感は無理に演出していたものだったのだろう、また姿が変わり這い回る溶岩に苛まれていたコアノルは、『あれ』と『彼奴』という明らかに待遇の違う二つの存在の『調教』と『調整』を任せると言い放ち、それで全てを察したデクストラは。


「お任せを。 コアノル様も、どうかご自愛ください」

「……うむ……では妾は今少しばかり寝るのじゃ」


 心から、本当に心からコアノルを心配している事が分かる優しい声音と瞳を以て気遣い、それを受けた魔王は苦痛に顔を歪めながらもベッドに寝転がり──。



 ──そのまま意識を手放した。



 ……やはり苦しいのか、うなされてはいる様だが。



 近寄るな──と言われつつも、こうして眠った後なら問題ないだろうと勝手に判断したデクストラは不安定な魔王の身体に赤黒く艶やかな布団をかけてから。











「──確実に、確実に仕留めてみせます。 コアノル様の御手を煩わせる事など、あってはなりませんから」



 静かな、されど確かな声音で宣言してみせた。



 他種族であれば禁忌という他ない──同族殺しを。

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