第186話 烏賊墨はともかく

「――よしっ」


 ――望子がカナタとキューをキッチンから出したのには、ちゃんとした理由がある。


 今からここで行う事を二人が是とするかどうか分からなかったし……何より、にどうなんだと言われてしまっては反論出来ないからだ。


 無論、八歳児である望子はそこまで難しい事を考えてはいなかったが……それでも直感でその判断を下したのは、母である柚乃ゆのの教育の賜物かもしれない。


「『おはよう、ふたりとも』」


 その後、鞄――無限収納エニグマから取り出し、床に優しく置いた二つのぬいぐるみに、重なって聞こえるその声で望子が語りかけると、それらは淡い光を放ち――。


「――ン……? な、なンだァ?」

「――ぅ、あ……ここは、どこ……?」


 今や望子の力で互いに上位種へと進化を遂げている二人――海皇烏賊スキュラのカリマと海神蛸ダゴンのポルネが目を覚まし、それまで強制的に眠らされている様な状態だったからか、困惑した表情を見せている。


「ふねのなか……っていうか、うみのうえだよ」

「「!?」」


 そんな二人に望子が声をかけると、目覚めたばかりだったという事もあってか、彼女たちは同時に勢いよく顔を上げて驚きを露わにしていた。


「お、おォ……ミコ、か。 成る程な、道理で懐かしい感じが――あ? 懐かしい……?」


 ある程度落ち着きを取り戻したカリマが望子の姿を視認してから部屋を見回しつつ、少しだけ揺れる様な感覚を覚えていたのだが……すぐに眉を顰めて首をかしげ、何かを思案し始めてしまう。


「……どうしたの? 海上なんだから懐かしいで合っているんじゃないかしら」

「いや……なァミコ、もしかしてこの船――」


 彼女と同じく懐かしさを覚え、海上だからと納得していたポルネの疑問は尤もだったが、当のカリマはそれだけで無く、海の上だからというだけでは無い、まるで我が家の様な懐かしさを感じており――。


「うん。 ふたりがのってたっていうふねを……かいぞう? かいりょう? したやつなんだって」

「え……そう、なの?」

「あー……やっぱそうか」


 カリマが何を言いたいのかを幼いながらに察した望子が、この船――三素勇艦デルタイリスが彼女たちが乗っていた海賊船を基に造られたのだと簡単に告げると、それを知らされる機会の無かった二人は懐かしさの正体はそれか、と先程よりも納得のいった様子を見せていた。


「で? 何でアタシらを――あァ、飯だからか」

「とってもいい匂いがするわ……これを貴女が?」


 その後、進化によって少しだけ長く……そして毒々しい色になった髪を掻きつつ、カリマが自分たちを起こした理由を自己完結にて理解する一方、進化によってより一層妖艶さの増したポルネは、味付けされた魚介の香りを感じ取り、望子へと疑問を投げかける。


「うん! それでね? ふたりにおねがいがあるの」

「「お願い?」」


 望子はそれを肯定しながらも、二人を起こした理由は他にもあると告げた事で、彼女たちは揃って首をかしげて望子の言葉の一部分を反復した。


「ふたりとも、『すみ』ってだせる?」

「「……墨?」」


 すると望子はこくんと頷いてから、蛸と烏賊ならもしかしてとずっと考えていた事を口にすると、二人はまたしても声を揃えてきょとんとしてしまう。


「まァ、出せるが……え、まさか料理に使おうとしてンのか? アタシらの出す墨を?」

「だめ?」


 しばらくの間、んー、と唸っていた二人だったが、代表して口を開いたカリマが、普通の烏賊の墨を料理に使う事もある、というこの世界であっても存在する通例を思い出して尋ねると、当の望子は断られるとは思っていないのか、首をかしげて尋ね返してきた。


「……駄目じゃねェけど……自分で食うモンに混ぜ込みたくはねェなァ。 いや、つばとは違ェんだが」

「それに烏賊カリマのならともかく、わたしのは料理に向かないんじゃないかしら……いや、知らないけどね?」


 それを受けた二人は腕組みをしつつも、かたやカリマは自分の身体から出したものをまた口に入れるのはと苦笑いし、かたやポルネは蛸の墨が料理に使われた事例は聞いた事が無かったらしく、自分のはいらないんじゃないかと控えめに提案する。


「じゃあ、あじみさせてくれる?」

「「味見……」」


 だが、取り敢えず味だけでも確認したいらしい、あどけない声音で告げられた望子の言葉を受けた二人はそう呟き、互いの顔を見合わせてしまう。


 ――普通の烏賊や蛸であれば、捕食者を撃退する為に漏斗管と呼ばれる器官から噴出するのだが……あいにく、彼女たちはそれらを元とした亜人族デミ


 姿形を模してはいても、一概に生態までそのままだとは言い切れず……現に梟や海豚を模しているハピやフィンも、眠る際に片目だけを開けたままにする、所謂半眠睡眠と呼ばれる方法をとったりはしない。


 ゆえに、出そうと思えばいつ何時なんどきでも口から……正確には体内にあるらしい墨袋という器官から、勢いを調節して吐き出せるとの事だった。


 ――だが……いや、だからこそ。


「そ、その……私たちの墨って、口から出す事になるのだけれど……いいの?」

「うん! たべるのはわたしだけだとおもうから」


 そう、望子が考えていたのはこの点であり、それを理解したポルネがおずおずと忠告するも、自分が食べる分には良い筈と判断した望子はニパッと笑う。


「……じゃあ、アタシから――ゥえ」


 納得した様なしていない様な微妙な表情を浮かべながらも、カリマは溜息をついてから片手を口元に持っていき、絞り出すかの如き声と共に口からドロッとした真っ黒な液体を吐き出して望子に差し出す。


「――ほら、舐めてみな」

「うん。 それじゃあ……いただきます」


 望子は差し出され白い手に自分の小さな手を添えて、更に小さく可愛らしい――それでいて何処か妖艶な舌を出し、黒い液体を少し舐めたその瞬間――。


「――!?」


 墨越しではあったらしいが、カリマの手に望子の舌が触れた事で彼女の身体に凄まじい衝撃が走り、身体を支えていた十本の触手に力が入らなくなる。


「か、カリマ? どうしたの?」

「あ……? あ、あァいや……何でも、ねェぜ……」


 それを見たポルネが心配そうに声をかけるも、どう説明したらいいのかも分からないカリマは、ゆっくりと首を振りつつ気にするなと告げた。


(何だ、今のは……まるで、ポルネと最初にシた時みてェな……おいおい、まさかアタシ、コイツに……)


 だが、カリマはその衝撃に既視感があった様で、こんな真っ昼間から最愛の恋人であるポルネとの初めての口づけと……何なら初夜の事まで思い返していた。


 そして、望子との接触でそんな事を思い出し、その時と同じ衝撃を受けたという事は――。


「むぐ……ちょっとねばっとしてる? でも……うん、おいしいおいしい。 これならだいじょうぶかな」


 一方、望子は口に含んだ若干の粘り気がある墨を味わいながら、すっかり黒くなってしまった歯や舌を特に隠す事も無く嬉しそうに頷いている。


「じゃあ、次は私かしら――ん」


 その後、満足そうにしていた望子が自分の方へと視線を向けた為、断る事は出来ないかと諦めたポルネはカリマと同じ様に自分の手に墨を吐き出した。


「はい、どうぞ」

「うん、ありがとう……いただきます」


 そしてまたしても同じ様に望子に差し出し、望子も先程と同じく顔を近づけ舌を出して――。


「――ぁ、はっ!?」

「……!」


 瞬間、カリマよりも一層大袈裟な反応を見せたポルネは、墨が床に垂れてしまうのも構わずだらんと腕を下げてしまう程の強い衝撃を受けてしまっていた。


 それを見ていたカリマは、やはりポルネにも同じ衝撃が走ったのだろうと直感で理解する。


「むぐ……うーん。 おいしいけど……さらっとしすぎてるかも? ぱすたにはあわないかなぁ」


 そんな二人をよそに、望子は先程と同じ様に口を動かしていたが、烏賊カリマのものと比べて随分とサラサラしている事に気がつくやいなや、味はともかくパスタには合わないかもと考え、別の料理に使えないか考えなきゃ、と料理番らしい考えを脳内で展開していた。


「ふたりともありがとう! きょうはいかさんのすみをつかいたいから、ここにためてくれる?」

「お、おォ」


 そして望子は、自分の歯や舌が黒くなっているだろう事も理解していたらしく、フィンに貯めてもらっていた水で口を濯いでから二人に礼を述べつつ、少しだけ底の深い陶器をカリマへと手渡したのだった。


「ふんふーん♪」


 その後、カリマの墨も陶器に貯め終わり、後は仕上げだとばかりに盛り付けを始めた望子をよそに、二人は身を寄せ合って何かをこそこそと呟き合う。


「ね、ねぇカリマ……もしかして貴女も……」

「……あァ。 アイツの舌が触れた瞬間、何つーか……ビリッときた、って言やァいいのか?」

「やっぱり、そうなのね……ねぇ、これって」

「アタシも似た様な事考えた。 もしかしたらってな」


 そんな風に話す二人は今、望子を見つめる自分たちの瞳が若干潤んだ様になってしまっているのにもきっと気がついており、互いに考えている事もきっと同じなのだろう事も……何となく察していた。


 そう、彼女たちが互いに向けている感情と同じものを、目の前の少女に向けているのかも、という事を。


「……私たちって、こんなに軽い女だったかしら」

「……さァな」


 少しだけ上気した頬を互いに見えない様に隠しながら、そんな事を呟き合って……一様に溜息をついた。


 一方、二人の脳内には、互いだけで無く自分たちの間で望子もいて、三人で仲睦まじく暮らす……そんな有り得ない光景が浮かんでもいたのだが――。


「――できた! あとははこぶだけーっと」


 料理の完成を告げる望子の声でハッと我に返った彼女たちは、慌てた様子でほぼ同時にブンブンと首を振り、浮かんでいた妄想を振り払ってから、

「て、手伝うわ」

「あ、アタシも」

「ありがとう!」

 配膳の手伝いを申し出た事で望子はニコッと笑みを見せつつも、腰辺りから四本程の蒼炎の尻尾を展開して、載せきれない分を二人に任せる事にした。


「みんな! またせてごめんね――」


 その後、サラダに各々がかけるだろう調味料も用意し、準備は万端だと判断した望子が二人を連れて扉を開き、元気良く声をかけようとした瞬間――。


 ――バキャアッ!


「おわぁ!?」

「ぐぅっ!?」


 そんな二人の悲鳴にも似た声と、何かが壊れた様な鈍い音と共に望子の視界に映ったのは……中央辺りから真っ二つに割れてしまった長机と、それを挟み込む様にして倒れ込むウルとレプターの姿だった。


「……なに、やってるの?」

「「っ!?」」


 それを見た望子の口からは、自分でも信じられない程に低い声が出た様な気がしたが……それは気のせいでも何でも無く、その場にいた全員が目を見開いて望子と……その矛先が向けられた二人を見ている。


「ま、待ってくれ! ミコ、これには色々と訳が――」

「申し訳ありません! 全ては私の不服の致す――」


 かたや何らかの言い訳をしようとしているウル、かたや片膝と片手を床につけて誠心誠意謝罪するレプター……だか、今の望子にとってはどちらも同じ。


 瞬間、一度深く息を吸った望子の姿が、少しずつ蒼炎に包まれ希薄になっていき――。


『こたえて――なにを、やってるの?』

「「……!!」」


 そう告げられた望子の声に覇気が増した事かと思えば……二人の、そしてこの場にいる全員の目の前で望子は、全身が蒼炎と化した狐人ワーフォックスとなって、弁明しようとした二人に極めて冷ややかな視線を向けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る