虚塔

@TakaoSaito1

虚塔

 最近、夢にとても高い塔が出てくる。

それも頻繁に。夢に出る塔は高すぎて一部しか見えていない。塔は黒く、塔全体から邪悪さが滲み出ているような気がする。いつも気分が悪くなり、眠っている僕は夢から覚める。

 

 「スカイタワーの秘密って知ってるか?」と急に訊ねられ、寝起き直後の僕は寝ぼけた目つきで声の主を探した。

声の主、ルームシェアをしているルームメイトのグレイがキッチンで朝食の準備をしていた。

「おはよう、なんだよ急に。今なんて云った?」と僕は応えると、「スカイタワーだよ、今おれたちが暮らしている、このタワーさ」とグレイは出来たばかりの朝食のプレートを僕に渡しながら云った。ベーコンとスクランブルエッグ、程よく焦げ目がついたトーストというお決まりの朝食だがグレイの作る朝食は美味しくて、僕はとても気に入っていた。

 「このタワーがどうしたって云うんだよ」

「いや、特に何かあったってわけではないんだが、ふと気になってね。とんでもないタワーだなって」と笑いつつトーストを齧りながら何かを考えている様子だった。

「スカイタワー、二〇六〇年に現在の日本の首都であるネオニイガタ(旧新潟)にて建設が開始され、二〇九〇年に世界一の高さを誇る三五〇〇mの複合タワーとして竣工。その後第二期の拡張建設プロジェクトが開始され、二一〇〇年現在、高さ五五〇〇mに到達。

スカイタワーは、住居、オフィス、ホテル、学校、病院、駅、警察、飲食店など生活に必要な施設が整ったインフラタワーとして機能している」と僕は手のひらサイズのタブレットに表示されているスカイタワーの資料を淡々と読んで聞かせた。

「何も変なことなんてないだろ?一緒に暮らし始めて何も疑問に感じたことはないぜ。とにかく便利だなと思ったくらいだ。秘密なんてあるのか」と僕は訊ねた。

「今おれたちが暮らしているここは三五〇階の住居ゾーンで、いわゆる低階層だ。高さにしてみればたかだか四〇〇m。一〇〇〇階

より上には登ったことがない」

「それがどうした。それより上に行く必要がないからだろ。生活に必要なものは全て一〇〇〇階以内の低階層で足りるからな。しかも噂によると、それ以上の階層に行くには特別なパスが必要と聞いたことがある」

「そこも考えてみれば不思議じゃないか、ジェーン?なぜ特別なパスが必要なのか、上には何があるのか、そもそもなぜこんな高いタワーが建設されたのか。いつかのサグラダファミリアじゃあるまいし」とグレイはコーヒーを飲みながら云った。

「そんなの今更考えることかよ。二十歳になって家を出て、このタワーに移り住んだ。親友のお前とルームシェアをしてもう四年も経つ、何も変わらない生活さ」と僕は朝食を終え、片付けをし始めた。

 「きっとこのタワーには何か秘密があるのさ。それを突き止めてみたいとは思わないか」

「秘密を見つけて何になる?まあ、興味はなくはないが、きっとおれたちみたいに多くの人が住んでいるだけだろ」と応えると、

「そうかもしれないが、あるいはそうじゃないかもしれない」と遠くを見つめるような表情でグレイは小声で云った。その表情が何かを決心したような気がして、僕の心は少しだけざわついた。特に気にせず、その後僕は六七〇階にある食品会社に出社した。

 その日の朝が僕とグレイの最後の会話になった。

 事故死だった。

夕方近く、会社でネオニイガタ警察から僕宛に電話があり、事故の知らせを受けた。

信じられない思いですぐに家に戻ると、警察がすでに家の中で待っていた。

「ジェーンさんですね。こんばんは、ネオニイガタ警察のミンと申します。この度は大変お気の毒に」と四〇代半ばと思われる刑事と軽く握手を交わすと早々に本題に入った。

 ミン刑事からの報告によると、僕が今朝出社したあとグレイは会社を休み、階層エレベーターを使い、九九〇階へ登った。そこから上には登れないことになっているが、グレイは工具で壁に穴を開け、工事関係者だけが使う通路に侵入。階段を使い一〇〇〇階の中階層入口まで登り、工事用通路から壁に穴を開けて忍び込むと、偶然巡回していた警備兵に発見され、逃走。その最中、登りの階層エレベーターに飛び移ろうとジャンプするも、着地に失敗し、約十mの高さから転落して死亡した、とのことだった。

「それで、どうしてグレイは中階層に侵入したんですか」とミン刑事に質問すると、ミン刑事は髪が薄くなり始めている頭を二三度掻きながら、「それが分かりません。何か心当たりはありませんか」と僕に訊ねた。

思い当たるとすれば、それこそ今朝の会話だ。だが今それを言うのはまずいと思い、僕は、特に思い当たることがないと返答した。そうですか、十年来の親友でも思い当たりませんかとミン刑事は残念そうに云って帰ろうとした。

「ちょっと待ってください。僕とグレイが十年来の親友だと調べたんですか」と聞くと、「それはそうですよ。グレイさんは中階層に侵入した、ストレートに言えば犯罪者です。中階層の安全を脅かし、逃走し中階層を混乱に陥れたのです。どういう人物なのか諸々調べました」と冷たい表情でミン刑事は僕を見つめていた。

僕は気分が悪くなった。

「あ、いえ、気を悪くさせたら申し訳ありません。別にジェーンさんが悪いと云っているわけではありません」と弁明した。

「今晩は勝手にお邪魔してすみません。それでは、もし何かありましたらご連絡をするかもしれません」ドアから立ち去ろうとする背中へ、僕は問いかけた。

「中階層以上には何があるんですか」ミン刑事は振り返り、それは応えられませんと困ったような表情で首を横に振った。

何か良くないことを知っている、と僕の直感がそう云っていた。

「もしかして、グレイさんが侵入した理由がそれですか?だとしたら、ジェーンさん、あなたは止めておいた方がいいですよ」と低い声で釘をさすように云った。

「世の中には知らずに済むことの方が多い。それらを無理に知ろうとするとどこかで不都合が生じるものです」失礼しますと云い残し、ミン刑事は軽く礼をして扉を丁寧に閉めて立ち去った。

家の中には親友の体温がまだ残っているような気がして、未だ信じられず呆然と立ち尽くしていた。

 その日の晩、僕はまた黒い塔の夢を見た。とても高くて黒い、邪悪な塔。今までよりも塔が鮮明に見えた。僕はその塔を破壊しようと試みているようにも見えた。夢に霧がかかり始めたころ僕は目が覚めた。体中が汗ばみ、強張っていた。

 それから数日間は黒い塔の夢を見る日々が続いた。眠りが浅くなり、僕は睡眠不足で体調を悪くしていた。

 グレイの葬儀はタワーの四四五階にある安めの葬儀場でひっそりと事務的に執り行われた。

 葬儀を終え、疲れ果てて階層エレベーターに乗った僕は、ぼんやりしたまま行き先を指定するパネルに触れずにいた。

我に返り、行き先を指定していなかったことに気づいたときにはエレベーターはなぜか〇五階に到着していた。扉が開くとそこは暗く、あらゆるゴミが散乱した空間が広がっていた。植物もあちこちに生い茂り、湿気と匂いがひどい。慌てて腕で鼻をふさぎ、周りを見渡しても人の気配がなかった。扉が開いたままのエレベーターと僕がいるだけだった。

「誰かと思えばあんた、あの兄ちゃんのルームメイトか」と暗闇の中から男の声が響いた。

僕は驚き、声の方向を見つめた。

暗闇の中から、三十代と思われる無精髭を生やした男がゆっくりと現れた。立ち込む異臭に耐えられず、僕は後ずさりをしていた。

「あなた、誰ですか」と鼻をふさぎながら僕は訊ねると、男はシドと応えた。

シドはホームレスとして、タワーの五階、六階を生活空間として使っているらしい。

「なぜ、僕とグレイのことを知っているんですか」

「あいつ、グレイっていう名前だったのか。名乗らずにおれに会いに来たからな。それで、あいつは今無事か」とシドは心配そうな表情を浮かべていた。

「え、無事って何ですか。グレイは何をしにここに来たんですか」

「お前何も聞かされてないのか。まあ、友人を巻き込めないってことか」

「どういうことなんですか。グレイは四日前に死にました。中階層に侵入して、警備兵に追われている間に、エレベーターから転落したそうです」と僕は苛々しながら云うと、シドは目を見開き、それは本当かと驚いた。

「ええ、本当です。刑事からそう聞かされました」

「あの野郎。バカなことをしやがって」

「教えてください。グレイはなぜあなたに会いに来たんですか。中階層に行って何をしようとしていたんですか」

「あいつはこのタワーの秘密を暴こうとしていたんだろう。今お前らが住んでいる低階層の人間は中階層より上には行くことができない。なぜなら中階層、高階層にいる人間は低階層の住民や資源を搾取している上流階級だからだ。明るみに出ていないが、凄まじい差別が広がっている」

「なぜあなたがそれを知っているんですか」

「おれは元々高階層で生まれ育ったからだ。幼少期のある日、高階層で奴隷のように働かされ、人として扱われていない低階層の住民を見て疑問に思ったおれは母親に聞いたんだ。『なんであの人たちは僕たちと違ってあんなに汚い格好をして働いているの』ってな。そしたら何て云ったと思う?『あの人たちは私たちより下に住んでいるから良いの。下の人たちは薄汚く、私たちと区別するためよ』と云ったんだ。信じられるか?高階層に住んでいるやつらは全員当たり前と考えている。それに耐えられなくなったおれはお前くらいの年齢のとき、高階層から逃げ出してここに行き着いた。ここでひっそりと暮らしてる方がマシだぜ」

「グレイはその秘密を暴くため中階層に忍び込んだんですか」

「大方そんなところだな。だがそれ以上に、あいつの母親が高階層で奴隷のように働かされているらしい。母親を助け出したいから、高階層行きのパスをくれとおれに言ってきた。どこかのルートを使って、おれが低階層に住んでいると聞き出したんだろう」

全く知らなかった。グレイの親の話をした記憶もなかった。

グレイとの付き合いは長く、お互いのことを知り尽くしているつもりだった。まさか高階層にいる母を救おうと犯罪まで犯すとは全く想定していなかった。せめてその気配だけでも気付いていれば、最悪の事態は避けられたかもしれない。

「あいつには、中階層から高階層にいくためのパスを渡していた。おれのパスを使えば高階層に侵入できるが、低階層から中階層を超えるためにはあいつ自身の力で切り抜けなければならなかった。そこで見つかってしまったのなら、かなり厳しいだろう」シドもグレイを止めなかったことを後悔しているようだった。

シドは胸ポケットからタバコとライターを取り出し、手際よく火をつけ吸い始めた。

「蔓延している差別が秘密ですか」と僕は訊ねると、いやそれは違うと煙を吐き出しながらシドは云った。

「おれもよく分からないがスカイタワーの最上階に行けばこのタワーの全ての秘密が分かると云われている。高階層の人間も、最上階に立ち入ることは禁じられている」気だるそうに二本目のタバコに火をつけ始めていた。僕は黙ってシドの手元を見つめていた。

「だが、おれもあいつの気持ちは分からなくもない。秘密を知りたいという好奇心もあるが、それ以上にこのタワーの暴走を止めたいとも思っている。低階層の人間を、同じ人間がゴミのように扱うことが世界のあるべき姿ではない」僕は黙って聞いていると、突然タブレットにコールがあった。ミン刑事からだ。画面に表示されている番号を眺めているとシドは怪訝そうな顔で誰からだ、出ないのかと煽った。何度目かのコールの後僕は応答した。

「はい」

「ジェーンさんですか?こんばんは。先日は急に伺ってすみません」ミン刑事の感情は読み取れなかった。

どうしたのかと訊ねると「低階層エレベーターの一つが、いわゆる『超低階層』に向かったきり、戻ってこないとエレベーターが異常通知を発信したので、調べてみると乗っていたのがジェーンさんでした。超低階層には何の御用で?何もない、暗くて危ないエリアですよ」と云った。刑事としてはもっともな心配だ。

「特に何も。グレイの葬儀を終えてつい、エレベーターの中で眠ってしまいました。気づいたらこんなに、とても薄気味悪いところに」わざとらしく云いシドの顔をチラッと覗くと、不服そうな表情を浮かべていた。

「そうですか。出来るだけ早くお帰りになるようにしてください。我々警察でも滅多に近づかない薄気味悪い場所ですから」

電話を切れとシドが表情で訴える。

「それと、今回の件は本当にお悔やみ申し上げます。今でもさぞお辛いでしょう。我々で何かできることがあればいつでも云ってください」ミン刑事に悟られないよう冷静なまま、挨拶を交わし電話を切った。

「警察からか」とシドは訊ねた。

「そうです。何となく気持ち悪い人です。何を考えているか読めないというか」

「もしかしたら、警察もお前をマークしているのかもな」

「そうなんですか」と僕の声は少し震えていた。

「お前の友人が反乱めいたことをしたんだぜ。ルームメイトのお前もしばらく監視はするだろう」と両手を広げ当たり前だろというような顔をした。

 「シドさん、僕を高階層に連れてってくれませんか」と僕は意を決して訊ねた。

「おいおい、どうしたんだよ急に」三本目のタバコに火をつけようとしていた手を止めた。

「今思い出したんですが、おじいちゃんが、僕が子供の頃、スカイタワーの建設が終わったときに人間の時代は終わると何度も言っていました」

「ほう、それで」

「その時は何も感じていませんでしたが、今ならグレイの思いが分かります。このタワーは醜い世界の縮図でしかない」

「それでスカイタワーの高階層に殴り込むってか」シドは半ば呆れ気味な表情をしている。

「スカイタワーの最上階に行って、この目で確かめたいんです。このタワーの秘密が何なのか」

「お前本気で言っているのか」と厳しい目つきで僕をじっと見つめた。僕は本気ですと低い声で応えた。

「仮にここでおれが止めても、お前は一人ででも殴りこみに行くだろうな。仕方ない、せめておれが付いてやる」とシドは云った。僕は深く頭を下げた。

「お前はお前で準備をしておけ。おれからの連絡はすぐに出られるようにしろ。決行する日時は追って連絡する」僕は、分かりましたとだけ返事をし、すぐに自宅に帰った。

 その日からの数日間、黒い塔は夢に現れなかった。

 シドからは定期的に、僕宛にショートメッセージが届き、ミン刑事の目につかないよう慎重に準備を進めていた。

時折、ミン刑事からのコールが来たものの、大した内容ではなく、日を追うごとに連絡は来なくなり、監視の目が緩みつつあることを実感していた。

 グレイの転落事故から二週間が経過しようとしていたある日、シドから決行日時の連絡が入った。急遽、明日の昼だと告げられた。

 九八〇階の展望エリアは、低階層の観光客たちで賑わっていた。低階層の住人には、何不自由なく生活できる人間もいれば、グレイの親のように中階層、高階層に実質奴隷のような形で働きに出ざるを得ないものもいる。

 「待たせたな」とシドは黒いバッグを右手に持ち、いかにも高そうなジャケットを身にまとい現れた。

「こんなに人が多いところで待ち合わせて平気なの」と僕は訊ねるも、シドは応えなかった。

「お前、それじゃ丸腰だ。これをつけろ」と太いフレームのメガネと黒のキャップを僕に渡した。

僕はそれらを身につけ、シドと中階層行きのエレベーターへ向かった。

 エレベーター前には全身黒のアーマーを身につけ、銃を携えた警備兵が二人立っていた。僕は出来るだけ顔を見せないよう下を向いていた。シドはカードのようなものを二枚、警備兵に見せると警備兵は訝しげに、しばらく確認した後、エレベーターの扉を開き、僕たちに乗るようにと指示をした。

「さっき見せたカード状のものがパスなの」

「そうだ。あれを使えば中階層、高階層と自由に行き来することができる」

ものすごいスピードで上へと登るエレベーターは静かに二人を運んでいた。

「そうだ、ジェーンのお爺様は昔伝説のバスケットボール選手なんだってな」

僕は下に沈んでいく各フロアを眺めていた。

「少し調べさせてもらったよ。映像でしかプレーを見たことはないが、素晴らしい選手だ。今度サインしてもらえないかな」シドは冗談交じりに云った。

「おじいちゃんはもう昔に亡くなってるよ。僕が子供の頃だったからほとんど記憶にないけど」

 しばらくしたあと、エレベーターは四五〇〇階で停止した。中階層と高階層の境界に到達した。

エレベーターを降りると、空港の荷物検査場のような光景が広がっていた。中階層から高階層へ戻る人たちで賑わい、何十人もの武装した警備兵、ドロイドが巡回していた。

シドは素早く僕に高階層行きのパスを手渡した。本人用以外でもう一つ準備していたようだった。

 二人は高階層行きエレベーターを待つ十人ほどの列に並び、順番を待っていた。

僕は前方に視線を向けると、中階層へ行くときに受けたときのように、警備兵がパスを念入りにチェックしていた。警備兵は白やグレーのアーマーを身にまとい、プラズマ銃のような武器を携帯していた。中階層を守る警備兵とグレードの違いが一目で分かり僕は緊張し、汗をかき始めていた。

「落ち着け、普通にしていれば大丈夫だ」とシドは小さな声で呟いた。

「次の方」と白のアーマーを着た警備兵がこもった声を発し、僕の前に並んでいた人のパスをチェックし始める。パスを眺めながら、名前と生年月日を言うようにと促す。

「ミン・ノエル、二〇五五年生まれ四十五歳です」

あの刑事だ。なぜここにいるのか、僕は心臓の鼓動が急激に早くなるのを感じた。汗が垂れ、口の中が乾いてくる。

「警察の方ですか。どうして高階層へ」と警備兵は訊ねながらパスを返した。

「少し用があるような気がしましてね」とミン刑事は応え、先へ進んだ。

僕は事前にシドから送られていたメッセージ通りの偽名と生年月日を警備兵に告げた後、 パスを見せ無事通過許可が下りた。

 エレベーターにはミン刑事を含む五人が乗った。僕は下を向き、最上階まで到着するのをひたすら祈っていた。

隣に意識を向けると、ミン刑事がタブレットを操作しているのが分かった。

その直後、エレベーター内に僕のタブレットのコール音が鳴り響いた

ミン刑事は一瞬理解が追いついていない様子で音源の僕を見つめていた。

「なぜここにいる」とミン刑事は低く鋭い口調で問い質した。

まずい。恐怖のあまり口が乾き声が出ない。

ミン刑事は腰にかけている拳銃にゆっくりと手をかけていた。

「もう一度だけ聞く。なぜここにいる。どこへ行くつもりだジェーン」

その瞬間、エレベーターが停止した。シドが緊急停止システムを作動させていた。扉が開き一瞬の間が生まれた瞬間、シドはミン刑事の顔面を一発殴り、ミン刑事はくぐもった声を発しその場に倒れた。シドは行くぞと云い、エレベーターを飛び出し、高階層エリアを走り回った。

僕は後ろを振り返らず、ひたすらシドの後を走って追いかけた。シドは足が早く、付いていくのに苦労した。

素早く別のエリアにあるエレベーターに滑り込み、僕が入るのと同時に扉を閉め、更に上へと向かった。

下のフロアからミン刑事が追いかけ、登っているエレベーターに向かって何発か発砲した。窓ガラスに二発命中したが、強化ガラスのため、ヒビが入る程度だった。ミン刑事の顔は怒りで歪んでいた。

 エレベーターは五五〇〇階、最上階に到着するとそこは真っ白な壁と床に囲まれた何もない空間だった。警備兵は一人もおらず、とても広い部屋のようだった。

二人の荒い息づかいだけが聞こえていた。

「ここがスカイタワーの最上階」と肩で息をしながら訊ねるとシドはそうだと応えた。

「何もないけど」

「それはお前がこれから創っていくんだ」とシドは真剣な眼差しを僕に向けていた。

「え」

白い部屋の遠くからガラガラと扉が開くような音が響いた。

訳も分からず音のする方を見ると、車椅子に乗せられた老人の男とスーツを着て車椅子を押している長身の男がゆっくりとこちらに向かってきていた。

「シド、どういうことだこれは」とシドに向き直り問い質す。声が部屋をこだまする。

「私が応えよう、ジェーン」と車椅子の老人は弱々しい声を出し云った。よく見ると身体中にチューブがつながれている。

「あなたは誰だ」と僕は訊ねると、お前のお爺様だと隣にいるシドが云った。

おじいちゃんはもう死んでしまっているという事実に襲われながら、目の前の光景を脳が拒否していた。

「私はお前の祖父であり、このタワーの建設をした人間だ。だが、このタワーはもう完成している」推定百十歳を超えていそうな容姿の老人はそう告げた。

「あなたが、このタワーを」

「そうだ。そして完成した。次はジェーンに託すつもりでいる」

「ちょっと、意味が分からないんですが、僕に託すとはどういう意味ですか」

「詳しくはおれが説明する」とシドが間に入って続きを話そうとした瞬間、エレベーターの扉が勢い良く開き、ミン刑事が現れた。

ミン刑事は僕を見つけるやいなや、動くなと大声で拳銃を僕に向けた。

「ミン刑事待ってくれ。ここはあなたが来る場所ではない」とシドは左手でミン刑事を制した。ミン刑事は拳銃を構えたまま、僕とシド、そして車椅子の老人を交互に見つめていた。

「ジェーンは中階層、高階層に侵入した犯罪者だ。今すぐ引き渡すんだ」とシドに向け云った。

「お前こそ下がってろ、警察の人間だからってでしゃばるんじゃねえ」と老人は低い声で一喝して牽制した。

「ジェーン、よく聞くんだ。このタワーはもうすぐ打ち上がる」老人が僕に向かって話し始める。

「打ち上がる?どういう意味」

「もうすぐ宇宙空間に向けて出発する宇宙船なんだ。そのキャプテンとしてジェーン、お前が次の時代の人類を率いるんだ」

「人類を率いる?意味が分からないよ」と僕は混乱しながら、言葉の意味を必死で理解しようと努めていた。

「そしたら、グレイはどうして」

「グレイのことは気の毒だった。彼にはジェーンをタワーの最上階まで来させるよう我々に協力し動いてもらう予定だったんだが、事故は予想外だった」シドが間に入り云った。

「そんな。シドはこのタワーにグレイの母親が奴隷として働かせられているって、凄まじい差別が広がっているって」

「グレイの母親の話は嘘だ。間接的にお前が最上階に行こうとする理由になればと。だが差別の話は本当だ。このタワーは世界の縮図として作られているからな」シドは表情を変えなかった。

「そんなの全部嘘だろ」

「今信じられない気持ちも分かる。だがよく考えてもみろ。今の地球は温暖化が最終局面を迎え、このタワーの外気温は五十度にもなり、植物、生物のほとんどが死滅している。

今や残されたのはこのスカイタワーにいる数少ない人類の生き残りだけなんだ。地球にはこれ以上住むことができない」

「地球を離れ、新しい文明をもう一度築くんだ」と老人は僕の目をまっすぐ見つめ云った。

「私はもう年だ。十分に人生を全うした。次はジェーンが新しい人生を全うする番だ。壊れゆく地球で人生を終わらせるな。人間というのは、旅をし続けなければならないんだ。だから、ジェーン、旅を続けて欲しい。最後にこれをお前に伝えるのが私の仕事だ」初めより力強い声でそう云い終えると、長身の男が車椅子を押し、元来た道を戻り始めた。

「ちょっと待って。あなたは本当に僕のおじいちゃんなの」離れていく背中に向かって僕は問いた。

老人の代わりに長身の男が、黙って老人の右足首のズボンの裾をめくり、アキレス腱のあたりを僕に見せた。手術で縫ったような跡が残っていた。

昔バスケットボールの選手として、引退試合中にアキレス腱を断裂してしまったのを映像で見たことがある。その後の手術跡に間違いなかった。

 ミン刑事は一連の流れを呆然とした表情で眺めていた。下ろした拳銃を握り直す力はすでになくなっていた。

 もうすぐ地球を出発するとシドは僕の耳元で囁いた。

「どこに行くの」僕は弱弱しく訊ねた。

「さあな。それを探す長い旅になる」

シドは最上階の窓から見える水平線を眺めていた。夕日が沈もうとしている。とても綺麗な夕日だと僕は思った。こんなに綺麗な夕日を見るのはいつぶりだろうか。外の夕日が綺麗でも外で暮らすことはもうできない。地球を離れなければならない。こんなにも美しい地球を。

望むと望まないとに関わらず、もうこれから黒い塔が僕の夢に出てくることはないだろう。

 夕日が沈みきるのと同時くらいに、タワー全体が大きく振動し始めた。凄まじい轟音をあげ、その直後閃光が真っ白な部屋を包んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

虚塔 @TakaoSaito1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ