我が光
伊島糸雨
我が光
深い深い水の底に、私はいる。そこは海でも湖でもなく、きっとどこでもない。身体は重く、私は身じろぎもせずに、ただただ浮かび、沈んでいる。
遥か遠くの水面に、一筋の光が反射している。私はそれが何だか思い出せないまま、ぼんやりと輝きを見つめている。実のところ、私は自分の身を包むものが水であるのかも理解してはいなかった。感覚としては、それに近い気がするのだが。どうにもよく、わからない。何もかもがくぐもって、霞んでいるようだった。
すべてを、私は知っているはずだ。この奇妙な身の重さも、遠く煌めく光の正体も、知っているはずだった。
だが、思い出せない。
知っている、はずなのだが。
* *
「ねぇ、あなた。起きて……」
穏やかな囁きに、ゆるゆると瞼を上げる。同時に私の意識は周囲の音を捉え、数秒の困惑の後、現状を理解する。後頭部を支える柔らかな感触と、私を覗き込む女の顔が状況を物語っている。どうやら私は眠っていたらしい。
「ああ……おはよう」
木漏れ日に目を眇めながら、にこやかに微笑む女に挨拶をする。おはよう、おはよう。私は頭でそう繰り返し、言葉が意識に馴染むことを確認する。私は眠っていた。そして起きた。であれば、確かに「おはよう」というので間違いないだろう。
「おはよう。ずいぶんとぐっすり寝ていたわ。きっと、疲れてたのね」
言いながら、女は労わるように私の髪を軽く梳いた。慈愛に満ちた手つきに、心身の強張りが解れる思いがした。
女の言う通り、ここ最近は多忙を極めていて、ろくに休みも取れていななかった。あちらこちらを走り回り、安定しない環境で長期間生活するというのは、かなりの負担を私に強いた。ここに来てようやく一息つけたわけだが、一月もすればまた次が始まるだろう。結局のところ、私は腰を落ち着けてなどいられないのだ、と少しばかり悲観する。
「……仕方ないさ。僕にはもう、それしかない。疲れても、他にないからね」
私というのは、仕事以外で自分を満たすことができないタイプの人間だった。それが先天的に得た特性なのか後天的なものなのかというと、おそらく後者だろう。今の私は、私自身を補強しうるものを持ち合わせていない。言うなれば、守るべきものを、失っているのだ。
それにしても、今私は「僕」と言ったか、「僕」と。「僕」だなんて、十代の頃に使っていた一人称じゃないか。なぜ私は今更そんなものを……と考え、ああ、とその理由に思い当たる。
なるほど、どうやら私はこの女に気を許しているらしい。確かに、どこか見覚えのある、親しみを感じる顔立ちをしていた。
私が言葉を言い終えると、女は私の頭を撫ぜていた手を次第に緩めていった。様子の変化に戸惑いながら女の表情を見ると、彼女はその美しい光を返す瞳を潤ませていた。
「ごめんなさい」
小さな呟きだったはずだが、私の耳はその音の仔細を完全に捉えていた。何か、強く印象に残るような響きをしていた。ごめんなさい。私はこの言葉を、いつかどこかでこの女から聞いたことがあっただろうか……。
「……なにを、謝るんだ」
この女は、一体なにを謝っているのだろう、と思う。私と女の間に、なにがあったと? 女が私にもたらしているこの感情に対して、一体なにがあるというんだ。
「ごめんなさい、ごめんね……」
涙の雫が私の頬を濡らす。女は泣き、私はその様を変わらず真下から眺めている。困惑は次第に不安へと変わり、私は女を疑った。
「君は、誰なんだ」
数瞬の沈黙があった。耳元では、草が擦れる音が微かに聞こえていた。
「……私は、」
囁かれた名に、脳が震える。すべてが納得のいく事だったと知る。
「そうか。そういう、ことか」
私は得心し、抱いていた奇妙な違和感の正体を知った。
もし、それが本当であるというのなら。
「謝るのは、僕の方だ」
彼女を見上げながら、ごめん、と囁いた。
女の瞳が、眩しいほどに輝きを増す。私はその光に飲み込まれながら、こんな世界は違うだろう、と小さく呟いた。
* *
近頃、繰り返し夢を見る。どれもこれもが寸分違わず同じシチュエーションで、登場人物の一人である私は、絶対にそのループを打ち破ることができない。
夢の中で私は妻帯者のようで、見覚えのある顔が私に優しく語りかけてくる。私は何か泥濘の底のような場所から浮かび上がってきたような感覚で、寝ぼけ眼のまま「おはよう」と声を掛ける。そうして私は現実を履き違えたままやり取りを続け、最後に気づく。こんな世界は違う、と。
瞼の裏を焼く閃光と、耳朶を打ち据える轟音に瞼を持ち上げる。同時に私の意識は周囲の音を捉え、瞬時に現状を理解する。塹壕の中、同僚たちの怒号が交差する。
「のんきに寝てる場合か! 敵しゅっ」
ぼご、という音とともに、私に声をかけた兵士が奇妙な姿勢で倒れ伏す。ヘルメットの側面には穴が開いていて、地面にはわずかに脳漿と血が飛散していた。私は蹲ったまま嘆息する。まったく、そんな場所で立つからだ。
夜空は煌々と燃え盛り、爆音と悲鳴が入り混じって混沌としている。一昨日訪れた街は飛竜の放つ業火に焼き尽くされ、遠く煙を上げていた。
あの街の住人は、戦争屋の私たちにも随分と良くしてくれた。それだけに、いささか残念ではある。私の軍服に花の刺繍をしてくれた少女も、今頃は炎の中焼けていることだろう。竜の息吹は中々に消えないと聞く。できるならば、苦痛の少ない死を迎えられるといいのだが。
敵の射線の陰になる位置まで村を移動し、他の部隊に混じって魔導小銃の引き金を引く。青白い燐光が迸り、魔弾が飛翔して敵兵を射抜いていく。
慣れ親しんだ感覚だった。十年近くこんな日々を繰り返すうちに、私は多くのものを削ぎ落とし、切り捨て、戦争で人を殺すしか能のない男に成り下がった。年を重ねて上手くなったのは、殺しだけだ。
塹壕に突っ込んできた敵兵にナイフを突き立てる。同時に殴りつけて黙らせてから、胸郭に捩じ込んだ刃を引き抜き、その場で振って粘つく血液を払い落とす。
いつまでこんなことを続ければいいのだろう、と不意に思うことがある。例えば命を奪った時。例えばすぐそばで命が奪われた時。果たして、私の死は迫っているのだろうか。
己の死を願うわけではなかった。死ぬとなれば私は抗うに相違なく、故にこそ、私はこの戦場にいて、まだ生命を保っている。ではなぜ抗うのか。それが、わからない。
魔弾が眼前の地面を砕き、崩れた土が飛散する。それに呼応するように、私もまた、引き金を引く。
いつまで殺す。いつまで生きる? 私のような男が、なぜ生かされる。なぜ、こんな私だというんだ。
「こんな世界は、違うだろう」
零した言葉は、銃火のうちに掻き消える。
私は引き金を引く。そして、いつかの終わりに思いを馳せる。
* *
死体の鞄を漁ると、手帳の間に写真が挟んであった。穏やかに笑う持ち主と、その妻子らしき女と子供が写っている。私はそれがなんだか奇妙な気がして、しばらく見つめていた。それから自身の感覚の正体に当たりがつくと、写真を元の場所に戻した。
私には、家族というものがなかった。故に私は孤児院で育ち、親というのも何だかよく分からない。写真に感じたものは私のその境遇に起因するものだろう。私はどうも、家族と呼ばれるものがいまいち理解できないようだ。
孤児院で育ったとはいえ、別段生活に不自由はなかった。それに、私には魔導の才能とやらがあったようで、推薦を得て軍に入り、人を殺して褒章を得たりもした。悪くない気分だった。所詮は敵兵、いずれ殺すものを今殺し、それで栄誉が得られるのであれば殺すに越したことはないと思っていた。今となっては、その栄誉とやらへの欲求も失せ、理念も思想もなくただ戦争のどさくさに紛れて殺しに耽っている。どちらがマシか、などというのは判断のしようがないが、ロクでもないのに違いはなかった。
幼少の頃に知り合い、長く愛した女は、私が人殺しをしている間に流行り病で死んだ。臆病だった私の手を引いて外を駆け回る、日向のような女だった。暖かく、美しく、私の良き理解者、親友であり、同時に姉のようでもあった。思えばその女とは、軍に入る以前に街外れの丘にある木の下で、ピクニックをしたこともあっただろうか。
しかし、女は死んだ。私は間に合わず、守るべきものを持たないただの戦争屋に成り果てた。妻などいない。子などいない。私は何も遺すことなく、ただ死体ばかりを積み上げていく。私は、そのように生きていくのだと、その大きすぎる喪失が私に予感させた。そして現に私はそのように在る。そして、これが私だと傲岸に主張できるほどには、その在り方も馴染んでしまっているのだった。
だから、やはりあんな世界はまやかしだ。夢なのだ。どれだけ切に願ったとしても、決して得られない。そのような異なる世界の出来事を、人は希望を託しながら寝物語に語り継ぐのだから。
朝日に翳る村は、破壊の後が生々しく残っている。私は死体から戦利品を漁る同僚たちの元を離れ、村を俯瞰できる丘に向かった。
まばらに立ち並ぶ樹々の一つ、その陰に一組の男女の姿を見た。仲睦まじく並んで座り、晴れやかな笑みを浮かべながら談笑している。声は聞こえないが、彼らの間には穏やかな時間が流れているように私には見えた。
けれど、私にはそれが幻だとわかっている。
なぜなら、そこにいる男はかつての私だからだ。
なぜなら、そこにいる女はもう灰になったからだ。
「君は、他に道があったと思う……」
答えが出ないとわかりきっている問いを、そっと投げかける。
風が足元の草を靡かせ、私の声を流していく。遠くへ、遠くへと、風が攫っていく。
かつての私が、一瞬こちらを見たような気がしたが、次の瞬間にはもう見えなかった。すべては妄想だ。私はあの頃にはもう追いつけない。
思い出の残滓を探るように、木陰に腰を下ろす。小銃を立てかけ、幹に背中を預ける。
目を閉じる。少し、眠ろう。次の予定まで、幾らか時間があったはずだ。私とて心身の疲労はあるのだから、休めるときに、休まなければ。
死の匂いとは違う、草木の青さに包まれながら、ふと考える。
あの夢の世界は、現実ではない。その意味では、確かに違うだろう。そしてこの世界は、理想ではない。その意味では、確かに違うだろう。どちらも正しくはない。かといって、すべてを否定するべきではないのもまた、確かではある。
はっきりとしているのは、あの日々の幸せな記憶だけだ。私はそれにわずかでも触れるために、静かに目を閉じる。瞼を焼く陽光はそのままに、私は落ちていく。
深く、深く……。
水底に沈むように、深く、深く。
* *
深い深い水の底に、私はいる。そこは海でも湖でもなく、きっとどこでもない。身体は重く、私は身じろぎもせずに、ただただ浮かび、沈んでいる。
遥か遠くの水面に、一筋の光が反射している。それは幸福だった日々の輝きだ。私が愛した女の美しい瞳の煌めきだ。あの世界にあって唯一、私を私たらしめている太陽の光だ。
その光が届く限り、私は足掻き、もがきながらも生きることを諦めはしないだろう。私が死ねば、私の中の彼女も死ぬ。それは、避けなければならない。私が彼女を忘れるなど、あってはならないのだ。
私は、知っている。
遠く煌めく光の正体を、私は知っている。
【終】
我が光 伊島糸雨 @shiu_itoh
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