165 紅天楼、真夏の空に炎上する・その1




「もしかして、おまえは春兎?」

 

 若い女が会いたいと言って待っていると、萬姜は門番に呼ばれた。

 そして、門の傍らに身をひそめるようにして立っていた若い女が、春兎であることに気づくのに彼女はしばらく時間がかかった。


 化粧を施していない顔は青白い。

 結わずに一つにまとめて背中に垂らした髪もまた艶がなく、彼女を老けさせていた。


 これが十日ほど前に荘家本宅で見た春兎と同じ女だろうか。


 あの時は李香さまの病気見舞いであったので、春仙ですら化粧も控えた地味な装いだった。それなのに春兎は匂いも鼻につく念入りな化粧に、李香さまから白麗お嬢さまにくだされた着物がかすむかと思われたほどの派手な着物をまとっていた。


 あまりの変わりように驚いて、要件を問いただす言葉が出てこない。

 死んだ魚のような目をして心ここにあらずの声で春兎は言った。


「これは、康記さまから白麗お嬢さまへの文です。

 お嬢さまが字が読めないゆえに、萬姜さんへ渡すようにと言われました。

 文の中身は、誰にも漏らすなとのことです」


 そう言って萬姜の胸に文を押しつけると、春兎はよろよろと踵を返した。

 ふらふらとした生気のまったくないその後ろ姿に、「なんとまあ……」と萬姜は呟くしかない。






 

 康記からの文には、白麗への恋心がめんめんと綴られていた。

 そしてまた、母の李香とともに白麗に会いたく思うので、遣わした馬車に白麗と二人で乗るようにと結ばれていた。


……まあ、康記さまが、このような文をわたくしに。

 このようなことであれば、お父上の荘興さまにお頼みすればよろしいのに……


 そうは思ったが、文の内容に自尊心をくすぐられたのも事実だ。

 それで、女主人とともに屋敷から出る時は必ず允陶に願い出ていたが、この時は必要ないと思った。


 あとほんの少し後押しをすれば、お嬢さまは康記さまの想いを受け入れられるはず。そのためにも、康記より英卓をひいきにしている允陶に口を挟まれたくなかった。


 新開で、細やかな愛情あふれる人々に囲まれて萬姜は育ち暮らしてきた。

 人の悪意を見抜くことは得意ではない。

 それで、園剋のそして荘興の手のうちの駒として、白麗への自分の忠義心が利用されているなどとは、毛の先ほども考えつかなかった。


 しかし、馬車を前に困ったことが起きた。

 白麗が乗ろうとしなかった。


 梨佳と嬉児が一緒に乗ろうとしないので、白麗は嫌がった。

 彼女たちがついて来ない外出に楽しいものはないと、記憶は長く持たないが彼女だが知っている。

 前回は春仙がいたのでよかった。

 こうなれば見かけと違って我ままで癇癪持ちの女主人は、梃子でも動かない。


「あたしも、白麗おねえちゃんと一緒に行く!」


 ほとほと困り果てて立ち尽くした萬姜に助け船を出したのは、利発な嬉児だ。

 嬉児に手を取られた少女は機嫌を直し馬車に乗り込んだ。


 こうして白麗と萬姜と嬉児を乗せた馬車は、本宅からついてきた警護のもの数騎に囲まれて出発した。






 馬車の後ろを少し離れて、荘興の幾人かの手下が尾行する。

 そして屋敷内ではすで武具に身をかためた命知らずのもの達が、荘興の命令をいまかいまかと待っていた。



 

 

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