164 李香、白麗の笛の音に限りある命を想う・その11



 一年経ったのに、康記はいまだに白麗の心を掴むことが出来ていない。

 女がその気になるのを待つ必要などない。

 犯せばよいだけだ。


 そのように荘記に教えたが、一年も経つというのに彼は白麗の心を体をわが物としていない。そしてまた、企ての始まりに彼は荘記に言った。


「安心せよ、白麗とて若い娘だ。

 片腕がなく火傷の痕も残る男への興味などすぐに失せる」


 人の心を持たぬ彼に女心など理解できないが、そのぶん憶測し推察することには自信がある。羽をむしり足をもいだ虫を掌に載せて眺めるように、愚かしい人間たちの行動など先の先まで見通してきた。


 それなのになぜにあの小娘はことごとく自分の企てを打ち破るのか? 

 そのうえに李香の心まで引き離しおって。


 すべてはあの髪の真白い忌々しい白麗のせいだ。

 最後の最後になって、あの小娘は笛の音一つですべてを壊した。


……おのれ、白麗、生かしておくものか。

 操れぬなら殺すだけだ……

 





 部屋に取り残されていたのは園剋一人ではない。

 女の嗚咽が聞こえてきた。


 広縁の隅に座っていた春兎が肩を震わせて泣いている。

 骨の形の浮くほどに両手を膝の上で握りしめ、その上にぽたりぽたりと屈辱の涙を滴らせている。


 近ごろまったく自分に振り向きもしなくなった康記の心を再び取り戻すよい機会だと、しぶる春仙を説得して彼女は供としてついてきた。


 白麗という女は言葉を喋れず、記憶も定かでなく康記の名前すら覚えられなくて、「ウマ」と呼んでいるとか。

 そのような女だ、気位の高い李香の前で醜態を晒すのは目に見えていた。


 白麗が李香に叱責されてうろたえ、そしてその瞬間に康記の心が再び自分に戻る。今朝、念入りに化粧しこの日のために用意していた着物に袖を通しながら、何度も何度も想像した。


 しかし、李香も康記も彼女を一瞥だにしなかった。

 まるでここにいないかのような彼らの振る舞いだ。

 道端の小石であったほうがまだましだ。


 そしてたとえ彼らの目に入って話す機会が与えられたとしても、春仙のように常に平伏し、「卑しき身分なれば……」と言わなければならないのか。


 かたく握りしめた拳の上に落ちる涙は、焼けつくように熱い。

 自分はこのように熱い涙を流す一人の人間の女であるのに。


 自分をひたと見つめる視線を感じて春兎は顔を上げた。


 人のものではない色をした二つの眼が自分をひたと見つめている。

 言い知れぬ恐怖に身が竦む。

 涙が止まり息が止まる。

 魂が吸い取られていく。


 園剋はゆっくりと立ち上がり、瞬きを忘れて茫然と自分を見上げている女に近づいた。


 ……李香という大きな手駒は失ったが、若い康記は母親と惚れた白麗の名をちらつかせて脅せば、まだ言いなりになるだろう。

 そしてこの春兎という女も役に立つ。


 安陽に行くことが叶わなくなったとしても、荘興にむざむざと殺されてたまるものか。


 やつの命を奪うことが出来なくとも、手なり足なりに噛みついてありったけの毒を注ぎこんでやる。生きている間、耐え難い痛みに苦しみ、少しずつその身が腐り落ちていく恐怖を味わうがよい……



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