163 李香、白麗の笛の音に限りある命を想う・その10



 頬骨が浮くほどにやせ細り化粧でもその顔色の悪さを隠しきれていない李香が、悟ったものだけが見せる輝きに包まれていた。

 視線を再び春仙に移すと、彼女は言った。


「春仙、見ての通り、私はもう一人では歩くことすら叶わぬ身となっています。

 すまぬが、支えてくれますか?」


「奥さまのお言葉通りに……」


「わたくしの可愛い息子の康記。

 真白い髪の美しいお嬢さんが、何事が起ったのかと不安そうな顔をしていますよ。手をとって案内してあげなさい。


 では、永先生も参りましょう。

 そうそう、萬姜とやらも……」


 その言葉に、当然のごとく園剋も腰を上げようとした。

 その園剋の顔を李香は静かに見つめる。

 そしてかすかな笑みを浮かべた。


「園剋、おまえは来なくてもよいのです。

 おまえに笛や琵琶の音色の美しさなど理解は出来ないでしょう。

 そのようなものに一緒に来られては、おまえも退屈であろうし、こちらも興をそがれるというものです」


 その言葉に、腰を浮かしたまま園剋は固まった。

 人の心を持たぬ彼が、それでも姉の顔を見つめてその下にある心を読み取ろうとする。

 いったい姉に何が起きたというのか。

 穴の開くほどに見つめてもその答えはわからなかった。


 しかしこの瞬間、いままでしっかりと掴んでいたと信じて疑わなかった何かが、彼の両手からするりと落ちたのは確かだ。






 但州と春仙に体を支えられて、長い廊下をゆっくりと歩を進めながら李香は言った。


「永先生、噂は本当であったようですね」

「はて、噂とは?」


「白麗の笛の音は、先生の調合する薬よりもはるかにこの体に効きました。

 この不自由な体を、いえ、頑なに固まった心を、このように軽く感じるのは本当に久しぶりのこと」


 明るい声で但州は答える。


「李香さん、それはよいことだ。

 今の言葉、荘興が聞けば、さぞ喜ぶであろう」







  医師の永但州と妓女の春仙に支えられた李香の後ろに、白麗と康記とかしこまって体を小さくした萬姜が続く。彼らの後ろ姿が渡り廊下の向こうに消えても、そのなごやかに話し声と笑いあう声は園剋の耳に届いた。


 目の前の蛇に見据えられて怯え、魅入られたようにうずくまることしか知らぬと思っていた蛙の李香だった。


 それが、その目に憐れみとさげすみの色を浮かべて自分を見返した。

 そして突然に頭上高く跳躍し、手の届かぬところへ消え去ったのだ。


 ……どこでどう手抜かったのか?……


 美しい笛の音に心を動かさぬものとして李香は彼に憐みの言葉を投げつけて去ったが、彼のほうこそ歌舞音曲に心を奪われる人間たちを蔑んできた。


 目と耳でしか味わえぬただ美しいというだけのものに、時に人は、今までの信念や生き様をころっと替える。

 なんと愚かしいことだろう。

 そのようなものに心を動かすことのない自分が、今の今まで誇らしかった。


 立ち上がろうとして、彼は自分が中腰のままであったことに気づいた。

 どさりと座り直した。

 体の中の力という力がすべて抜けた。

 自分のあまりの無様さに、この一年の企てが無に帰したことを悟らざるを得ない。




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