162 李香、白麗の笛の音に限りある命を想う・その9




 穏やかに静かに始まった白麗の笛の音だった。

 しばらくして、琵琶の音が遠慮がちに伴奏する。

 やがて笛と琵琶の音が一体となった時、李香は凝り固まっていた心と体が柔らかくなっていることに気づいた。


 一陣の夏風が空に湧き起こった。


 それは、渦巻きながら地に降りてきて、緑深い木々の葉を揺らし池の水面みなもに白い波紋を描き、部屋の中に吹き込んできた。

 濡れ縁にかけられていたすだれが揺れる。

 飾り紐の先に下げられている紅玉がかすかに鳴る。


……ああ、なんということであろう。

 風すらも、この少女の笛の音に聴き入っている……


 白い髪の少女の吹く笛と春仙の琵琶の音に誘われて夢と現の境にいた李香は、風に頬をやさしく撫でられて、我に返った。

 触れてみなくてもわかる。

 自分の頬は知らず知らずのうちに流れた涙で濡れている。


 激しく絡み合った笛の琵琶の音が、終わりを迎えようとして静まりつつある。

 そしてその音は李香の耳の奥で余韻として優しく囁いた。


……意味のない命など、この世に一つとしてあろうものか。

 意味のない命など、この世に一つとしてあろうものか……

 







「白麗の笛と春仙の琵琶の音に、感服しました」


 李香の言葉に、演奏を終えて平伏していた春仙が顔を上げる。

 彼女は白麗を見上げて、優しい声でゆっくりと語りかけた。


「白麗お嬢さま、みごとな笛の音でございました。

 この春仙、お嬢さまの笛の音に弾き合わせることが出来たこと、一生の宝物とする所存にございます。

 さあ、お嬢さま、奥さまもお褒めにございますよ。」


 しかし春仙の言葉をさえぎって、李香が言った。


「春仙、気を遣わなくてよいのです。

 白麗が人の言葉を理解できないことは、夫より聞いています。


 さて、二人に褒美をとらそうと思いますが、ここで話をするに少々広すぎるようです。私の自室に冷たい水菓子など用意させるゆえに、そちらに移りましょう」


 その言葉に、春仙が慌てて再び平伏した。


「いえ、奥さま。

 私は、お褒めの言葉だけで充分でございます。

 私のように身分卑しきものが、奥さまのお部屋に入るわけにはまいりません」


「春仙。

 美しい女子だとは聞いてはいましたが、そのうえに心根も優しく賢いということはよくわかりました」


 そして但州に向かうと、彼女は言葉を続けた。


「永先生。

 この春仙であれば、私の死後、安心して夫を任せるというものです」


 驚いた春仙が返す言葉もなく床につくほどに深く頭を下げる。

 但州もまた口を開きかけたが、李香は片手をかすかに振った。


「自分の寿命はわかっております。

 私はもう長くはありません」


「母上! そのようなことを言われてはなりません」


「康記、取り乱してはなりません。

 生を受けたものが死ぬのは、この世の不変の定めです。

 わたくしは、死は怖くはありません。

 おまえのことだけが気がかかりで、無様に生にしがみついていました。


 しかし、いま白麗の笛の音がわたくしに、最期になすべきことを教えてくれたのです」


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