161 李香、白麗の笛の音に限りある命を想う・その8



 五十年に満たぬ人生ではあるが、天国も地獄も自分はすでに見たと、李香は思っている。


 豪商の娘として何不自由なく育ち、十五歳の時に荘興に恋をして、三年後に彼のもとに嫁いだ。

 ほどなく懐妊し、愛する夫に男の子を授けた。

 なんとまあ、あの時の誇らしかったことよ。

 あれが天国での絶頂期であったか。


 その後、もう一人娘を産んで、産後の肥立ちが優れず夫を遠ざけた。

 荘興は妻の我が儘を優しく受け入れた。

 それを〈愛〉だと思った自分はなんと若かったことだろう。


 荘興に高価で壊れやすい置き物のように扱われた。

 それを幸福なのか不幸なのか笑ってよいのか泣くべきなのか、わからない日々だった。


 慶央郭壁内の豪奢な邸宅・美しい着物・自分に従順に平伏する使用人。

 当たり前のようにそういうものに囲まれていると、夫にとって自分に代わる女などいくらでもいるのだと認めるのに、十年もかかったのだ。






 そんな時に、腹違いの弟・園剋が彼女を頼ってやって来た。


 彼の母親は、その身分を口にするのも憚られるような卑しい女だ。

 まだ臍の緒がついた状態で父が連れてきた腹違いの弟だった。


 よい顔立ちをしていて人並外れて賢くはあった。

 しかしこの世に生まれてきた時に、人の心をというものを母親の胎内に置き忘れて来たらしい。彼は感情のままに揺れ動く心を持て余すこともないが、人の細やかな情というものもまた理解できない。


 幼さが抜けるにしたがって、人の感情を理解できないという欠点を補う術を彼は身につけた。それは言い知れぬ恐怖で人を支配するというものだ。


 その園剋がなぜか李香に懐いた。


 誰かには頼らねば生きていけないと、幼いながらも人間ではない本能で嗅ぎ取ったのか。何不自由なく育った李香は、腹違いの弟・園剋に対しても世間知らずで鷹揚であったので、そこにつけ込まれたのか。


 園剋が陰で〈毒蛇〉と呼ばれていることを知った時、蛇に射竦められて動けなくなった蛙を、李香は想像した。まさに自分の姿だと思った。

 荘興に嫁ぐことが決まり泗水を離れられると知って、ほっとしたものだ。


 しかし、慶央暮しも十年が経とうかという時に、大人の男になりますます狡猾となった園剋が慶央にやってきた。


 あの日が、李香にとって地獄の始まりだ。


 夫に愛されない女と他人と情を交わせない男が、姉弟という関係を超えて男女の過ちを犯すのに時間はかからなかった。

 ぽっかりと空いていた李香の心の穴を、園剋が埋めたのだ。


 しかし彼女が罪の深さにおののいたのも事実で、同時に夫との関係も再び求めた。


 夫か園剋かどちらの子かわらぬものを身ごもった時、天罰として出産で子とともに命を落とすと信じて疑わなかった。

 しかし康記を無事に産み落とした。

 誰かに支えがなければ歩けない体になりながらも、永但州の手厚い治療でいまだ命を繋いでいる。


 時に想う。

 一人で歩くことさえままならぬ自分の命に意味はあるのかと。

 罪深い自分を生き長らえさせることによって、天は自分に何を求めているのかと。

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