160 李香、白麗の笛の音に限りある命を想う・その7



 少女は立ったままだ。

 人の言葉がわからずまた自ら喋るのも難しいゆえに、不作法は大目に見るようにと荘興に言われている。


 少女は自分がなぜこの屋敷に招かれたのかを理解していない。

 その目はただ横にいる春仙を見下ろしていた。

 春仙がなぜ琵琶を横に置いて伏したままなのか、不思議でならない様子だ。

 今に幼子のように癇癪を起しそうに李香には見えた。


……これはこれは。

 苦労して手には入れたものの、夫もさぞかし手を焼いているに違いない。

 そして、いくら惚れていても、康記が手懐けるのもまた至難の業……


 自覚のないままに上がった口角に、李香は自分が微笑んでいると気づいた。

 少女を見れば、恨みがましい言葉の一つや二つ口をついて出てくるものだと思っていた。

 まさか微笑むとは。


 但州が目ざとく彼女の微笑に気づいて不思議なものを見たという顔をする。

 弟の園剋は、もともと人の細やかな顔の表情などには興味がない。


 この園剋に「康記と真白い髪の少女との婚儀を、姉上の力でぜひに進めて欲しい」と頼まれた。

 理由は聞かなくともわかっている。

 自分が死んだあと、康記とともに安陽に向かうしか彼の生きる道はない。


 しかし園剋はその性格から人を恐怖で支配する方法しか知らない。

 このように人にひれ伏すことすら知らぬ少女を、彼は思いのままに操れるのか。


 少女を見ていると、慶央で暮らした三十年のことが頭の中に次々と浮かんでくる。

 ああ、きりがない……。

 李香は微笑みを浮かべたまま口を開いた。


「どうやら、堅苦しい挨拶は無用のようですね。

 では、百薬よりも病に効くという笛の音を聴かせてもらいましょう」


 ひれ伏していた春仙が顔を上げ、自分を見下ろしている白麗に言った。


「お嬢さま、奥様より笛の音のご所望がございました。

 いつものように曲想はおまかせいたします。

 お嬢さまの笛の音に、私の琵琶も喜んでついて参ることでしょう」


 春仙の言葉は理解できたようだ。

 にっこりと笑った白麗は体の向きを変えると、今度はその金茶色の目でひたと寝椅子に横たわったままの李香を見つめる。


 ……なんと、この少女は人の心を読むのか?……







 目の前に立つ白い髪の少女が吹く笛の音と、それに合わせて妓女の春仙が掻き鳴らす琵琶の音の響きに、李香は初めのうちは身を固くしていた。


 この少女の吹く笛の音を初めて聴いたものは、心を揺さぶられて涙を流すという。そしてまた万病を癒すとか。

 本家の屋敷に使いに出て、たまたまその笛の音を耳にした下働きのものたちが呆けたように口々に誉めそやした。

 それを聞かされるたびに李香は忌々しく思ったものだ。


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