166 紅天楼、真夏の空に炎上する・その3
門をくぐり郭壁内に入れば、すぐに喧噪溢れる街中となる。
寄木細工のような民家がひしめく。
子どもの声・赤子の泣き声・女たちの立ち話と、萬姜にもなじみのある日々の人の暮らしが立てる音だ。
そしてその人声が途絶える。
木々の葉のざわめき、小鳥のさえずり。
かすかに聞こえる小川のせせらぎもかすかに聞こえてくる。
高位役人や富豪たちの広大で清閑な屋敷が建ち並ぶ一画だ。
荘興の本宅もそういうところにある。
しかし馬車の外はいつまでもざわざわと騒がしい。
いや、いっそう行きかう人の足音、客を呼び込む店主の声が大きくなっている。
……いったいどうなっているのかしら?
本宅からの迎えの馬車が道を間違えるなどとはあり得ぬこと……
馬車の小さな窓に、萬姜は手をかけた。
細く開けた窓から外をうかがう。
見覚えのない街並みだった。
顔を突き出してもっとよく見ようとした時、外から男の低い声がした。
「命が惜しいと思うなら、騒ぐな」
馬車の横を並んで歩いていた男が、手にしていた刀を見せつける。
萬姜は慌てて窓を閉めた。
激しい動悸が突き上げてきて、全身が心の臓となったかと思えた。
夏の陽は天中に差しかかろうとする時刻なのに、冷たい汗が噴き出て体中を滝のように流れる。
「嬉児……」
彼女は娘にだけ聞こえる声で静かに呼びかけた。
震えてはいないがかすれた声だ。
いつもとは違う声の有様に気づいて、嬉児が顔を上げ賢そうな黒い二つの目で母を見上げる。
白麗といえば、萬嬉に教えてもらったばかりのわらべ歌を、小首を傾げて拍子をとりながら言葉になっていない小さな声で楽しそうに呟いている。
その様子を笑みを浮かべて見つめながら、萬姜は言った。
「嬉児、これからお母さまの言うことを静かにして聞きなさい。
馬車が止まったら、男がおまえを捕まえようとするはず。
そうしたら、その男を突き飛ばして逃げなさい。
後ろを振り返ってはなりませんよ」
馬車が止まった。
乗り口の戸が開き、男の手が伸びてきた。
萬姜の衿首がつかまれた。
仰向けになった手足をばたつかせる亀のような格好で、彼女はそのまま引きずりだされた。
「お母さま!」
嬉児が叫んで母の腰にしがみつく。
馬車から投げ出された二人は上になり下になりと固い石畳の上を転がった。
泣き叫ぶ嬉児の甲高い声が、周りを囲んだ茶色い
「ぎゃあぎゃあと煩いガキだ。
黙らぬと捻り殺すぞ」
男の一人が乱暴に嬉児を後ろから抱きかかえるようにして抑え込み、大きな掌で口を塞ぐ。
嬉児を逃して助けを呼ぶという萬姜の計画はもろくも崩れ去った……。
あちこちをしたたかに打った萬姜は立ち上がることが出来ない。
体の下の石畳が冷たい。
真夏でも日の差さない狭い裏路地に連れ込まれたようだ。
男は三人。
一人は萬嬉を後ろから抱きかかえている。
刀を抜いたもう一人は転がった萬姜の傍に立つ。
そして白麗を引きずり出そうとして、三人目が馬車に乗り込んだ。
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