157 李香、白麗の笛の音に限りある命を想う・その4



「萬姜、えらく嬉しそうな顔をしているな」

 

 三人をやり過ごそうと廊下の隅に身を寄せた萬姜に、英卓から声をかけてきた。

 いつもは人を食ったような薄笑いを浮かべている英卓だ。

 それが珍しく眉根を寄せて、不愉快な心の内を隠そうとしていない。


 康記さまとお嬢さまのことを思い浮かべていた心を読まれたのだろうか。

 萬姜は顔をあげると短く言い切った。


「そのようなことはございません」


 最近では英卓と口を利くのも腹が立つ。

 しかし、仮にも彼は荘家の次男だ。

 噛みつくわけにはいかない。


 萬姜の棒で鼻をくくったような返事に、英卓は睨み返しただけで通り過ぎた。

 彼の後ろに、いつものように堂鉄と徐平が続く。


 英卓に睨まれて腹立ちの収まらない萬姜の体が、堂鉄に向かって動いた。

 堂鉄の肩にも届かない背の高さでありながら、すれちがいざまに邪魔だとばかりにどんとぶつかる。


 なんとその衝撃で、大男の堂鉄がふらりとよろめいた。


 憎らしい壁の一角を崩したようで、萬姜の気がすうっと晴れた。

 胸を張り精一杯肩を怒らせた格好で、女主人の部屋に戻るべく歩みを速める。


 堂鉄と並んでいた徐平は、振り返ってそんな萬姜の後ろ姿を見た。

 そして堂鉄の何事もなかったかのような横顔を見て、彼は思った。


……肩にも届かぬ女にぶつかられて、よろめくか?

 わざとぶつかってくる女の気配が、前もって読めない堂鉄兄ではない……


 もの問いたげに眺めてくる徐平を、堂鉄は気づかぬふりをした。

 そしてそっと右手を握りしめる。


 その右手にはいまだに嵐の夜に触れた萬姜の手の感触が残っていた。


 あの夜の萬姜の手はかさついていて、指の節も太かった。

 その感触に、妓楼で抱く女の滑らかで細い手しか知らぬ堂鉄の心が戸惑った。


「これが、愛する者を守り慈しむ女の手というものなのか……」

 







 

 萬姜と入れ替わりに案内も請わず部屋に入ってくるなり、立ったままで英卓は父・荘興を見下ろして言った。


「父上、麗を……、いえ、白麗を、園剋叔父のいる本宅に行かせることには、俺は納得できません」


「気を静めて、まずは座れ」と、息子の無遠慮を咎めることなく落ち着いた声で荘興は答えた。


「関景に聞いたのか?」


 父に促されて、英卓は自分が怒りに我を忘れていたことに気づいた。

 白麗のことを関景から聞き、父の真意を確かめようと思い立った時までは冷静だった。しかし嬉しそうな笑みを浮かべていた萬姜とすれ違った時、白麗に迫る危険を形に見た気がして、彼は突き上げるような怒りを覚えたのだ。


「関景の爺さまから、先ほど、聞かされたばかりです」

「それなら話は早い。細かい説明は不要だろう」

「いいえ、このような企ての必要な理由をお聞かせください」


 怒りに身を任せたまま荘興の前にどすんと座ると、目の前には色一つ変えぬ父の顔があった。冷徹としか言いようのないものが、父の体からがひたひたと迫ってくる。これが荘本家三千人を従える男の眼差しなのか。


 英卓の体から怒りが抜けていく。

 それでもまだ体の中に残っていたものをなんとか集めて、彼は言った。


「何も知らない白麗を園剋のもとに送り込むなど、あまりにも危険です」


「何も知らないからよいのであろう?

 何も知らないから、この計画はうまく運ぶというものだ」

 

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