153 英卓と萬姜、嵐の夜に火花を散らす・その5
「承知!」
堂鉄と徐平が声を揃えて答え、彼らも前に据えられた酒の膳をさっと横に払うと立ち上がった。
堂鉄より一歩前に出た徐平が体を後ろに逸らすと同時に、片足を差し出す。
錯乱して彼らの前を走り抜けようとした白麗は、その足に躓いた。
たたらを踏んだ白麗の前に、今度は堂鉄が立つ。
彼は倒れてきた白麗の体を左手で抱きとめる。
そして右手の拳を彼女の鳩尾に当てた。
白麗の体が崩れ落ちた。
すべてが、萬姜が声をあげる間もない瞬時に起きた。
堂鉄が気を失った白麗を抱きかかえて前を通った時、彼女は自分の腰が抜けていることに気づいた。
一年前の嵐の夜は錯乱した白麗に突き飛ばされて腰が抜けた。
今夜は目の前で起こった予測をはるかに超えた展開に驚いて腰が抜けた。
立ち上がれなくて口だけがあわあわと動いているのが、滑稽に見えたのだろう。 徐平が笑いながら手を差し出してきた。
一年前に允陶の手を振り払った時と同じように、彼女はその手を邪険に振り払った。
白麗が気を失って寝台に横たわっているのをよいことに、英卓はその横に腰をかけて、少女の顔をまじまじと眺めていた。
時おり、玩具を弄ぶようにその頬を指先でつつく。
「いま気づいたが、麗の眉毛や睫毛は黒いのだなあ。
そうだ、萬姜。
麗の下の毛の色はどうなっている?」
あまりの言い方に萬姜の怒り頂点に達した。
投げつけるために、目の前に置かれていた茶器に手をかける。
その時、彼女の手に横に座っていた堂鉄の手が載せられた。
力なのか技なのか、軽く抑えられているはずなのに彼女の茶器を持つ手はぴくりとも動かせない。
「慶央を出奔して放浪していた時に、おれは髪の白い若い男に出会ったことがある。なんとその男は、一夜にして、髪の毛が真っ白になったそうだ。
死よりも堪えがたい恐怖を経験すると、時に人はそうなるものらしい。
雷の轟く夜に、麗もよほどの恐怖を味わったのだろう。
もしかしたらその時に、言葉も記憶も失ったのかも知れんな」
その言葉に萬姜は手を引っ込める。
堂鉄も静かに手を離した。
「確かに可愛らしい顔立ちはしている。
しかし、皆が天女だというのは褒め過ぎだと思うぞ。
これはそうとうに我が儘なガキだ。
康記を〈ウマ〉と呼ぶとはなかなかの見上げた根性だ」
そう言いながら、荘英は指を白麗の頬から顎、そして首筋へと這わせた。
白い喉元の下で着物の衿が乱れて開いていた。
まだ子どもだが胸のふくらみがまったくないというのでもない。
ちょっと覗いてみるかと衿に指をかける。
そして、ちっと舌打ちをした。
耐え難い頭痛に襲われたからだ。
白麗が自分に執心していることは知っている。
無邪気に身も心も投げ出してくるさまに、美しい少女の想いに少しくらい応えてやってもいいかと思う。
しかしそういう下心を持った途端に頭が割れそうに痛む。
なぜかはわからない。
永先生に相談したところで笑い飛ばされるだけだろう。
父の荘興に訊くなどとは論外だ。
立ち上がった英卓は言った。
「堂鉄、おまえの当身技はいつまで効く?」
「白麗さまは、明け方まで目を覚ますことはないかと」
「……ということだ、萬姜。
おれたちは部屋に戻る。
明日の朝までに目を通しておかねばならぬ文が山のようにある」
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