135 沈明宥、慶央の山中で賊に襲われる・その7

 



 承家が宮中の政とは距離を置いた質素剛健を家訓とする武家であったことも幸いした。冬華は無事に成長して、名実ともに林家の嫁となり、三人の子どもを産んだ。


 そのようにして月日が過ぎたのち、なんと冬華の孫娘が入内し、皇帝の寵愛を得て第五皇子を産んだ。


 世間というものは落ちぶれたものに過酷だが、しかし忘れ去るのも速い。

 現在十三歳となった第五皇子に林家の血が流れていることを知っているものがどのくらいいるというのか。

 そしてまた、皇帝の妃となった冬華の孫娘と第五皇子すら、林家ついては何も聞かされずに育っているに違いない。


 十三年前に、皇帝の妃となった孫娘の安産祈願のために冬華が寺に参拝するという噂を聞きつけて、明宥も人混みに紛れてその姿を見に行ったことがある。


 明宥の前を、大勢の供を引き連れた老いた冬華が通り過ぎていった。

 それは一瞬であるにしても、その姿に、生き別れた時の赤ん坊の面影を重ねることは難しかった。


 その時に、彼は流れた月日のあまりの長さを思い知ったのだ。

 処刑場の露となった一族郎党の恨みを晴らし林家を再興するという気概が、彼の心の中で泡がはじけたように潰えた瞬間だった。


 その時より、健草店を息子たちにゆずり隠居して、如賢と旅に出るようになった。今では一縷の望みを託して死んでいった者たちが夢の中で、無言で彼を責めるのみである。







 それにしても昔々に死に別れ生き別れたものたちのことを、このようにありありと思い出せるものだろうか。

 閉じた瞼の奥に浮かんだものとはいえ、手を伸ばせば届きそうではないか。


「明宥さん、気になさらずともよい。

 あのものの吹く笛の音は、聴くものの深い想いを揺さぶる」


 荘興の言葉に、沈明は目を開けた。

 皆の視線が自分に集まっている。

 自分の頬を幾筋もの涙が伝っていると気づいた彼は、慌てて着物の袖で涙をぬぐうと言った。


「これはお見苦しいところをお見せしました。

 歳のせいで、涙もろくなったようです」







 同じころ、荘本家の表座敷より離れた静かな部屋で、沈如賢は梨佳の介助を受けながら夕食をとっていた。


 膳の上に並んだものは、梨佳が心を込めて作った病人食だ。

 如賢は箸を休めては、それらの見栄えと味を褒めちぎる。

 その時だけは、よそよそしい態度の梨佳が顔をあげ嬉しそうに彼を見るからだ。


 重傷の怪我人であるが、如賢は若い男だ。

 年頃の梨佳が看病のためとはいえ、馴れ馴れしく振舞えるわけがない。

 そして、屋敷内のことはむやみに喋らないようにと母親の萬姜より言われている。


 痒いところに手が届く気遣いを見せながらも、そういうことを頑なに守っている梨佳の態度が、如賢には微笑ましくもあり好ましい。


「永先生に言われたのですよ。

 おまえの傷には薬よりも、梨佳さんの作る食事の方がよく効いていると」


「白麗お嬢さまがご病気の時、何も召し上がってくださらなくて。

 それで調理人の徐平さんにいろいろと料理を教わったのです。

 如賢さまのお口に合ったようで嬉しく思います」


 萬梨は白い頬を赤く染めて答えた。

 その時、ここにも笛の音が流れてきた。


「あれは?」


「白麗お嬢さまの笛の音でございます。

 お嬢さまがここまでお元気になられたとは……。」


 女主人の回復を喜び涙ぐむ様子があまりにも愛おしくて、沈賢は彼女の手をとった。梨佳が静かに彼の胸の中に倒れ込む。


 若い二人の心が定まった瞬間だった。


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