134 沈明宥、慶央の山中で賊に襲われる・その6




 明宥の言葉に、荘興ではなく関景が答えた。


「いや、英卓は荘本家のものとして当然のことをしたまでのこと。

 まったく礼には及ばぬ。

 まだまだあのものは修業の身でしてな。

 この厳しい父親の言葉一つであちこちを飛びまわっておる。

 屋敷に落ちつく間がないのだ」


「さようでございましたか。

 それにしても、山賊相手にあの見事な働きぶり。

 見ていて胸のすく想いがいたしました」


 明宥の褒め言葉に、我がことのように関景は相好を崩した。


 





 その時、屋敷内のどこからか、妙なる笛の音が響いてきた。


 荘興・関景・永但州の三人が同時に「おお!」と声をあげ、手にしていた盃を膳の上に戻す。酒の入った甕を手に動き回っていた允陶も居ずまいを正して部屋の隅に座った。


 明宥一人がその光景に解せぬ顔をした。

 それに気づいた荘興が言った。


「我が屋敷に笛の名手がいる。

 そのものは病を得たので長く湯治場に行かせておったのだが、よくなったので戻ってきたところだ。


 今宵、やっと笛を吹く気になったようだ。

 我々もその音を耳にするのは久しぶりとなる。

 まあ、明宥さんも、しばし楽しまれるとよかろう」


 病の癒えたものが久しぶりに吹く笛の音という言葉通りに、その音色は耳を澄ましていなければならぬほどに微かなものだった。


 かろうじて初秋の夜風に乗って運ばれてくる。

 時々途絶えるのは、風が吹く方向を変えるためか。

 それとも奏でるものの息が続かぬためか。


 目の前に座る男たちを見れば、それぞれに半眼となり笛の音色の世界に身を任せている様子。

 確かにここちよい音色ではあると、明宥も静かに目を閉じた。


 ふいに彼の瞼の奥に、昔々に死んでいった懐かしい人たちの顔が浮かんできた。

 父母・兄弟姉妹、そして叔父叔母たち。

 

 毎晩、懐かしい彼らを夢に見る。

 しかし、目を覚ませば、彼らのその顔かたちは幻のように薄れてしまう。

 六十年も経ったのだ、しかたがない。

 そう自分を慰めていた。


 しかし、いま彼の瞼の奥に蘇った彼らのありありとした姿は、手を伸ばせば触れられるかのようだ。






 六十年昔、当時の皇帝の御代替わりに伴い、当然のように起きた宮中での政変。

 宰相であった父が、宮中の朝議の最中に、ささいな罪に問われそのまま投獄された。


 それをきっかけに粛清の嵐が吹き荒れた。

 林家の血に繋がるものたちは処刑され、もしくは自ら命を絶った。

 助かったのは、身代わりの死体を用意して逃げ延びた十歳の林明賢こと沈明宥と、生まれたばかりの妹・冬華の二人のみ。


 当時の皇太后が、冬華の小さな命を助けた。


「老いたものの最期の願いを聞き入れよ」

 皇太后が言えば、年かさのものに従順する宮中にあっては、誰も彼女には逆らえない。


 皇太后に言葉に合わせるように、林家と親しかった承将軍も言い張った。


「林家に生まれた子が女子であれば、承家の嫁にもらい受けると約束している。

 それゆえに、冬華はすでに林家の女子ではなく、我が承家の女子だ」





 

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