112 白麗、英卓に抱かれて湯に浸かる・その4



 萬姜から受け取った盆を片手に持って、英卓は白麗の寝室の外に立っていた。


 少女とは一度だけ挨拶のようなものはした。

 同じ屋根の下にいて、それ以外、会う機会はない。

 よほど体調が優れないのだろう、部屋にこもったきりだ。

 しかしもう一度、その顔を見てみたいと思っていた。


 片時も英卓の傍を離れようとしない堂鉄と徐平だったが、この時は、彼らも遠慮したようでついてこなかった。


 父と少女の会話を立ち聞きするつもりはなかった。

 いや正確に言えば、聞こえてきたのは、父が少女に話しかけている声だけだが。

 少女が言葉に不自由だとはすでに聞かされていたことだ。


 幼いころから怖い人だと思っていた父が、あのように優しい声で話すとは。

 そういえば、秘めやかに笑う声など聞いたことがあっただろうか。


 漏れ聞こえてきた父の声に昔を思い出そうとして、部屋の入り口で足が止まってしまったのだ。


 そして声が途絶えた時、少し開けてある戸から部屋の中を覗き見た。

 少女に覆いかぶさろうとしている父の背中が見えた。

 五十歳とは思えない壮健な男の背中に息を飲む思いがした。


 そういうことだったのかと、英卓は足音を忍ばせて後ずさった。

 父は少女のことを客人のような存在と言った。

 客人とはなんと便利な言葉であろうか。


 ……まあ、おれには関係のないことだ。

  二人のお楽しみの邪魔をすることもない……


 踵を返して厨房まで戻り、萬姜に煎じ薬の碗を載せた盆を返すと英卓は言った。


「急な用事を思い出した。

 やはり、おまえに頼むことにする」

 






 少女の体に覆いかぶさるほどに体を傾けて、荘興は言った。


「それには、いやがらずに永先生の煎じ薬を飲むしかない」


 煎じ薬という言葉にいかにも困った顔になる。

 よほど苦いのか。そして不味いのか。

 しかし、その表情がなんとも愛らしい。


……一時はどうなることかと肝を冷やしたが。

 もう、大丈夫だ……


 少女の顔のそばに片手をつくと、もう一方の手で額にかかっている髪を払い、彼は彼女の顔に顔をよせた。


 瞬きを忘れた金茶色の目が、近づく彼の顔を見上げていた。

 そして彼の唇が額に触れる瞬間、彼女は顔をそむけたのだ。


 初めて少女から拒絶された。

 しかし、荘興が驚いたのは一瞬だ。


 一抹の寂しさをおぼえたが、思いのほか、荘興の心に波風は立たなかった。

 英卓の喉を割こうとした手を少女に止められた時に、はっきりとした自覚まではなかったが、こうなることを覚悟していたところがある。


 天は自分を選んで、この手に少女を任せたと思っていた。

 しかし、それはどうも違うようだ。


 英卓の命を救ってもらったのだ。

 これ以上の恩寵を期待すれば、きっと天罰があたるに違いない。


 少女はいずれ慶央を去る日が来る。

 それとも自分の命が尽きる日のほうが先か。

 それまで妻にして身近で守ってやろうと思ったが、こうなればまた別の方法を考えねばならないだろう。


 

 


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