090 萬姜、嵐の夜に鬼子母神となる・その2



 外は風が吹き荒れていた。

 霰を含んだ大粒の雨が頬にあたり痛い。


「お嬢さま、お待ちください!」

 萬姜の悲鳴にも似た叫びは、再び近くに落ちた雷の轟きにかき消された。


 風によろめきながら渡り廊下の先を走る白い寝衣を纏った少女が、青白い閃光の中に浮かび上がっている。


 その姿がふっと消えた。

 雨で出来た水たまりに足を滑らせて転んだようだ。


 立ち上がろうともがいている少女に、やっと萬姜は追いついた。

 ずぶ濡れとなった少女を抱きしめて、吹きすさぶ風と轟く雷鳴にかき消されぬようにと萬姜はあらん限りの声で叫んだ。


「お嬢さま、お部屋に戻りま……!」


 しかしそう言い終らぬうちに、彼女は少女に突き飛ばされた。

 萬姜は仰向けに倒れ、その手は空を掴み、そして背中をしたたかに打った。

 華奢な体からは想像も出来ない力だ。


 立ち上がった少女は再び叫んだ。

「ソ・ウ・コ・ウ!」

 そしてまた駆けだす。


 激痛で立ち上がれない萬姜は、稲光に全身を青白く染まらせた女主人の後ろ姿を、目で追うしかなかった。


 それはこの世の人間の姿とは思えなかった。

 あれがよりにもよって、いつもは愛らしく無邪気な白麗お嬢さまのお姿とは。


 錯乱して叫び暴れる人というものを、萬姜は生まれて初めて見た。







 允陶とともに執務室にいた荘興に報告が入った。


「白麗さまが、宗主の寝所で暴れておられます」

「なんと? 白麗が暴れていると言ったか?」


 しかしそう報告したものが顔をあげれば、その顔には細い傷が数本あり、血が滲んでいる。女の爪で引っ掻かれた傷だ。


 允陶を従えて急いで寝所に戻ってみれば、白麗が暴れに暴れていた。


 ひっくり返された机、散らばった竹簡や文。

 鉢から飛び出して転がり、土まみれの根を見せていている盆栽。

 繊細な透かし彫りに薄絹を貼った引き戸も一枚、横倒しになっていた。

 少女が蹴り倒したのか。


 男たち数人が、少女を遠巻きに取り囲んでいた。


 敵と知れば問答無用で斬り捨てる猛者たちが、少女一人に手出し出来ないでいる。手の甲から血を滴らせているものは、かろうじて取り押さえてみたものの、手痛い反撃に合い噛みつかれた。


 「ソ・ウ・コ・ウ!」と、少女は叫んでいた。

 しかしその目は何も見ていないも同然で、部屋に入ってきた荘興と允陶に気づいていない。


 荘興が允陶に目配せをする。

 それを受けて、允陶が普段通りの声で少女に話しかけた。


「白麗さま、いかがなされました?」

 

 允陶の呼びかけに気をとられた少女の動きが止まる。

 その横をすり抜けて、荘興は寝台のある隣の部屋へと入っていった。

 再び姿を現した時、彼の手には広げられた夜具があった。


「白麗さま、この允陶を見忘れられましたか?」

 今度は、允陶は少女に数歩にじり寄る。


 荘興は注意深く少女の背後から近づき、その体に夜具をふわりと被せた。

 そして数本の紐を使って、少女を簀巻すまききにした。






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