※ 第四章 ※

堂鉄、六鹿山に英卓を探す

089 萬姜、嵐の夜に鬼子母神となる・その1




 梅見の宴から、一か月が過ぎた。


 紅白の花の上に時おり雪を積もらせながらも、荘本家屋敷の庭の梅の木は満開を過ぎた。いまは、枝の先の小さな新芽が、早く芽吹き過ぎたことを悔やみながら、冷たい北風に震えている。






 朝早くから、奥座敷の外が騒がしい。

 何事かと萬姜が顔を覗かせると、下働きの男がたくさんの板切れを抱えて立っていた。


「萬姜さん、驚かせてしまったかね?」

「その板切れ、何に使うのです?」


「ああ、これかい。これから、窓に打ちつけるんだよ……。

 ああ、そうだった。

 萬姜さんは、慶央の人ではないから、知らないのか。

 あの雲をみてごらんよ」


「雲?」


 萬姜は空を見上げた。

 しかし、薄青い冬晴れの空に雲は浮かんでいない。


「違う、違う。

 ほら、遠く西の方角に見える山の上にかかっている雲だ」


「まあ!」


 男が顎をしゃくった方角には、城郭に囲まれた慶央の街があり、その向こうは春の植え付けを待っている田畑が広がっている。

 そして低く連なる山々の稜線を真っ黒な雲が覆っていた。


「今夜は、慶央名物の春の嵐だ。

 まあ、しかたがない。

 この嵐が来なければ、慶央に春は来ないのだからねえ。

 萬姜さん、濡れて困るものや風で飛びそうなものは、部屋の中にいれておくんだよ」


 

 




 稜線にたなびいていた黒雲は、夕刻には空一面を覆った。

 風が出て来て、時おり、冷たい雨も混じる。


 厩舎の馬が騒ぎ始め、犬舎の犬たちの遠吠えが激しくなる。

 人にはまだ聞こえない遠雷が聞こえるのだろう。


 早めの夕餉の後、白麗と萬姜母子の四人は白麗の部屋に閉じこもった。


 出入口を小さく残したまま、すべての解放口は外から板切れで塞いでいる。

 それでもどこからか隙間風が入ってきた。


 揺れる木々の枝のざわめきが一段と大きくなった後、部屋の中の燭台の灯りが大きく揺れた。萬姜は少女を抱きしめ梨佳は妹の嬉児を抱きしめる四つの影が、天上や壁で不気味に踊る。


 やがて隙間風に、青白い閃光が混じるようになった。

 まるで足を持った生き物のように、雷鳴が近づいてくる。


 耳が裂けるような轟音ととも空から落ちてくる雷は、萬姜も嫌いだ。

 「大丈夫でございます。大丈夫でございます」

 震えている少女を抱きしめて、念仏のように呟く。


 部屋が昼間のような明るさで青白く燃え上がった。

 同時にバリバリバリ……と裂ける音がした。

 裏山の木に雷が落ちたと思った時、萬姜を突き倒して少女が立ち上がった。 


「ソ・ウ・コ・ウ!」

 少女は叫んだ。

 そして引き留めようとした萬姜の手を振り払って走り出す。


 その目は恐怖で丸く大きく見開いていたが、何も見ていないようだ。


 萬姜の針箱と反物を蹴散らかし、火鉢にぶつかる。

 五徳の上の鉄瓶は傾き、こぼれた湯で灰が湧き上がった。

 入口の板戸を、体当たりで開けて外に飛び出す。


「梨佳は嬉児とともにここに!

 戸をしっかりと閉めておきなさい!」


 叫んで、萬姜も女主人のあとを追う。

 あられ混じりの冷たい雨が頬を打った。


……お嬢さまが、あれほどの雷嫌いとは。

 知っておれば、あのような騒ぎにはならなかったはず……


 あとから悔やんだところで、その時の萬姜に何が出来ただろう。







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