092 萬姜、嵐の夜に鬼子母神となる・その4

 


 

 目を覚まさぬようにと気をつけながら、荘興は自分の首に回されている白麗の両手をそっと外した。


 まだ乾かぬ涙が一粒、少女の長い睫毛に残っている。

 枕元の燭台の灯りを受けて、それは金剛石のようにきらきらと輝いていた。

 少女への愛おしさが、胸の底より込み上げてくる。 


「白麗のことは、わしに任せよ。

 灯りを消して、二人とも下がれ」


 その言葉に、允陶は無言で立ちあがった。


 少女に酒を飲ませた夜も、少女を娶るのだと言った夜も、主人を諫めてきた。

 しかし、今夜の彼はもうこの状況を変える言葉を持っていない。

 少女自らがその名前を呼びながら、荘興の胸の中に飛び込んだのだ。

 嘆息すらつけない我が身であることを悟るしかない。

 

 隣で畏まっている萬姜は座ったままだ。

 立ち上がろうとしない。


……嵐の中、白麗さまに激しく振り払われて、背中を打ちつけたとか。

 それほど痛むのか。

 しかたがない、助け起こしてやるしかない……


 そう思った彼は萬姜に手を差し出した。

 今まで俯いて自分の膝を見つめていた女が、すっと顔をあげる。

 彼を見上げる丸い二つの目の色に、強い意志が浮かんでいた。


……しまった!

 すぐ横に座りながら、隣の部屋の様子に気を奪われていた。

 この女の心の内を読むのを怠ったった……


 ことを起こそうと決意している萬姜を思いとどまらせようと、允陶は伸ばした手で彼女の肩を掴む。


 素早く振り上げた手で、萬姜は男の手を振り払った。

 肉が肉を打つ音が、昼間のように明るい部屋の中に響き渡る。


 何事が起きたのかと、寝台の上で荘興が体を起こす気配がした。







 萬姜は膝をにじらせて、奥の部屋との境の戸に向かって深く頭を下げた。

 少女が蹴倒して桟を折り薄絹を引き裂いて無残な形となった戸だが、元の場所に立てられている。


 顔を上げた萬姜は、はっきりと通る声で言った。


「宗主さま、お嬢さまのお世話は私の仕事にございます。

 私にお任せください。


 私は鬼子母神さまの縁日で、母子四人、お嬢さまに命を救われました。

 その時に、これからのお嬢さまのお世話は、私の命に代えてもさせていただくと、鬼子母神さまに誓いました。

 神さまに誓った以上、守り通す所存にございます」


 隣の部屋にその言葉は届いているのか。

 荘興の返事はない。

 萬姜は言葉を続ける。


「荘興さま。

 あと一年か二年経てば、お嬢さまは美しい大人の女になられます。

 どうか、その日までいましばらく……」


 允陶は萬姜に最後まで言わせなかった。

 彼もまたよく通る声で叫んだ。


「萬姜、とち狂ったか!

 おのれの立場を忘れておって。

 宗主に対して、あまりの無礼三昧!」

 

 萬姜は允陶に向き直った。


「鬼子母神さまにかたく誓ったことなれば……」


「宗主の前で、神の名を持ち出すとは!

 聞くのさえ汚らわしい女の浅知恵!」


「そう言われましても。

 鬼子母神さまが……、鬼子母神さまに……」


「宗主、刀をお貸しください。

 私がこの愚かな女の首を刎ねます!」









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