093 萬姜、嵐の夜に鬼子母神となる・その5
昨夜の嵐は嘘だったのか。
翌朝は、掃き清めたように美しい晩冬の青い空の色だ。
部屋に入って来るなり、面白くてたまらぬという口調で医師の但州が言った。
「噛み傷やひっかき傷の手当てをしてきたところだ。
日々に鍛錬を怠っていない荘本家の男どもが、お嬢さん一人を相手にあの体たらくとは、なんと情けないことよ」
錯乱した少女に本気で手が出せなかったとは但州もわかっていることなので、荘興も黙って言わせている。
「昨夜は、おのれの寝所をお嬢さんに追い出されて、枕を持ってこそこそと部屋移りをしたとか」
昨夜のことはそういう話になって屋敷内を駆け巡っているのかと、友の言葉を聞きながら荘興は思った。
……奥座敷での騒動がたった半日で、まことしやかな尾ひれをつけて屋敷内で噂されるのは困ったことよ……
しかし、怪我人が出たのは隠しようがない。
また、彼は枕こそ抱えはしなかったが執務室に戻り、そこで独り寝の夜を明かしたのも事実だ。
「允陶と萬姜が、下手な芝居を演じてな。
二人が体をはってそこまでのことをするのなら、わしもその手に乗ってやろうかと思ったまでのこと」
片づけた机の上に茶器を並べていた允陶が言った。
「宗主、なんのことでございましょう?
あれは萬姜が勝手に言い出したことでございます」
「なにが、刀を貸してくれだ?
なにが、女の首を刎ねてみせるだ?
萬姜は萬姜で、鬼子母神が、鬼子母神がと、馬鹿の一つ覚えのように唱えて。
もうよい、思い出したくもない。
呼ぶまで下がっておれ」
その言葉に、いつものように允陶は隙のない慇懃な礼を見せて部屋を出て行った。
茶を一口啜った但州が言った。
「そうかそうか、噂とは別の事情があるようだな。
それでは、この話はもう二度と持ち出さないと約束しよう。
わしも鬼子母神さまとやらの天罰が怖い、怖い……」
荘興の部屋で目覚めた少女は、昨夜のことは何も憶えていないらしい。
自分がなぜこの部屋にいるのかと、大きな寝台の上で部屋を見回す仕草が可愛らしくもあり哀れでもある。
手足に擦り傷はあるがどれもたいしたことはない。
冷たい雨に濡れたが、これもまた風邪はひいていないようだ。
初めは言葉が通じぬ不自由と人並み外れたその無邪気さに、戸惑うことが多かった。しかしいまでは亀の甲より年の功で、女主人の扱いにも慣れてきた。
萬姜は言った。
「お嬢さま、お部屋のほうに温かいお食事の支度が出来ておりますれば、戻りましょう。梨佳と嬉児も待っておりますよ」
美味しい食事と、優しい梨佳と遊び仲間の嬉児!
思い出せないことを考える面倒から解放された少女は、喜びで手を叩き寝台から飛び起きる。そしてその後の行動は逃げる兎のごとく素早い。
部屋の外に飛び出していった。
「お嬢さま、部屋の外は寒うございます。
せめて羽織物を……。
ああ、素足ではございませんか」
慌てて立ち上がると、昨夜したたかに打った背中に痛みが走る。
「なんと、痛い……」
女主人が開け放したままの戸から、這うようにして萬姜は外に出た。
嵐に洗われた陽の光が寝不足の目に染みる。
……鬼子母神さまにお礼参りに伺わねば……
萬姜は心の中で手を合わせた。
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