077 荘興、喜蝶の名前を白麗と改める・その6




 白麗の治療を終えた医師の永但州と荘興は、二人して荘興の部屋に戻って来た。


 飾り棚の上の香炉から立ち上る紫煙が先ほどよりもわずかに濃い。

 そのよい香りは、今朝がたの惨状を部屋から消し去っていた。

 少女が倒れた時にその手から離れて転がった筆の墨の跡も、飛び散った血の跡もすべて片づけられている。


 但州の鍼治療のおかげで少女は血の気を取り戻した。

 いまは萬姜と梨佳の手厚い看護のもと、自室の寝台で静かに眠っている。


 但州の診立ては荘興と同じく、過度の緊張からきた吐血だった。

 喉の奥の細い血の管が傷ついて、しばらくは飲み食いに不自由するだろう。

 しかし、それ以上を案じることはない。


 部屋の真ん中には、赤々と炭が熾った火鉢が据えられている。

 その火鉢の前にどさりと但州が座り込むと、すかさず、盆の上に載せた茶を允陶が差し出した。


 茶を一口啜って、永但は言った。


「ああ、ここの茶は旨い……。

 我が家の息子は、薬問屋の支払いのために節約節約とばかり言いおって。

 うちの茶には色はあっても、味がない」


 自宅の医院は出來のよい息子に任せて、最近の但州は荘本家に入りびたりだ。

 一応の名目は荘本家屋敷内の怪我人や病人の治療ということになってはいるが、その実態は遊びに来ているようなものだ。

 まあそのおかげで、今朝の少女の治療にもすぐに間に合ったが。


「では、持ち帰っていただけるように、茶の葉を少々用意いたしましょう」


「おお、さすが允陶だ。気が利く」


「では、わたくしは下がっておりますので。

 用があればいつでもお呼びください」


 これからしばらくは、宗主・荘興と医師・但州の気がおけぬ男同士の話が始まる。それを察しての允陶の言葉だ。

 音もなく出て行く家令の後ろ姿を見送って、但州は呟く。


「まだ若いのに、面白味の欠片もない男だな、あれは」






 空になった湯飲み茶わんを、名残り惜しそうに但州は盆に戻した。


「荘興、嫌がるお嬢さんにおまえは何をしようとした?

 朝から、不埒なことを仕掛けたのではあるまいな?」


 とは、先ほどから彼が荘興に何度も訊くことだ。


「筆を持たせて、字を書かせようとしただけだ。

 白麗が絵を描くと、萬姜から聞いたものでな。

 初めは、白麗自身も楽しそうに筆を持っていたが……」


 その言葉をそのままに信じることは出来ぬと、但州が鼻を鳴らす。

 少女を妻にするのだという荘興の決意は、すでに彼の耳にも入っていた。


「字を書こうとすると、血を吐く。

 但州よ、この世に、そのような病はあるのか?」


「意に反することをしようとして、それを体が拒絶する。

 往々にして診ることのある心の病だ。

 お嬢さんの場合、それは、話すことであり字を書くことであるようだな。

 そのことで、過去に、よほどに辛い心の傷を負ったのか。

 ところで荘興、あのお嬢さんのことだが……」


 しかし、荘興は但州に最後まで言わせなかった。


「これは気づかずにすまぬことをした。

 茶碗が空ではないか。

 允陶に、新しく茶を淹れさせよう」


 いつものように、少女の過去について、目の前の友は何も話したくないのだと但州は思った。しかたがないので、話題を変える。


「二杯目の茶はいらぬ。

 そんなことより、英卓は、まだ見つからぬのか?」

 

 単刀直入なその言葉に、部屋の空気がぴんと張りつめた。



 


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