076 荘興、喜蝶の名前を白麗と改める・その5
その言葉が理解できたのかどうか。
後ろから抱きかかえた格好の、荘興の顎の下にある少女の真白い頭が頷く。
筆を持つ少女の手からは、これから起きることへの緊張と期待が伝わってきた。
まっすぐに立てた筆と、柔らかくしなった少女の手首の形。
ふと、「筆を持ったことのあるものの手」と、荘興は思う。
「筆をまっすぐに下ろし、左に短く払う」
その言葉とともに、二人で持つ墨を含んだ筆の先がすうっと下りて、紙に触れたか触れぬか……。
そこで、少女の手の動きが止まった。
添えた手を、荘興は軽く押す。
しかし、先ほどまで柳の若枝のようにしなやかだった少女の手は、押しても引いても動かぬ巌のように固まっていた。
「このまま、筆をまっすぐに下ろせば、よいだけだ」
少女の手が固まったまま震え始めた。
小刻みなその震えは腕へと伝わり、華奢な肩から全身へと広がる。
胸のほうから込み上げてくるものがあるようで、突然、咳き込んだ。
「どうした、白麗?」
机の上に広げられていた白い紙が赤く染まっていた。
「おっ、おっ、お嬢さま!
ちっ、ちっ、血が……」
喜蝶お嬢さまが、いや、白麗お嬢さまが血を吐いた。
目の前の事態にかろうじて声を上げることは出来たが、萬姜の体は動かない。
「狼狽えるな、萬姜!
允陶を呼んで来い。それから、永先生もだ!」
「はっ、はっ、はい……」
返事はしたものの、立ち上がろうとした萬姜は足が萎えて転んだ。
這って廊下まで出て、そこで柱にすがってなんとか立ち上がる。
もつれた足音が遠ざかっていく。
気を失って机の上に突っ伏している少女の顔を、荘興は覗き込んだ。
白い紙の上に散った赤い血の色には驚かされたが、冷静に見れば少量だ。
そっと起こして蒼白なその顔を腕に抱き、色を失った少女の唇についた血を指で拭った。二度目の吐血はない。
……毒を飲まされたのか?
いや、違うな。これは、緊張の病だ……
怒りで血を吐くものも見たが、これから起きることの恐ろしさに堪えられず、血を吐き気を失うものも幾人も見てきた。
走るというよりは跳ぶような複数の足音が近づいてくる。
奥座敷の警護に配置されていた男たちだ。
部屋に飛び込んできた彼らはすでに抜刀していた。
「宗主!」
「宗主!」
「大事ない。慌てるな」
荘興の落ち着いた言葉に、萬姜の慌てぶりから想像したことは起きていないと知って、男たちは刀を鞘に納める。
一足遅れて、これもまた刀を手に允陶が急ぎ足でやってきた。
彼は部屋を見渡し、そこで起きたことを察すると言った。
「宗主、永先生は直に参ります」
そして、帯刀した男たちに言った。
「大事は起きていない。おまえたちは戻ってよい」
軽く拱手して戻っていく男たちの背を見送ったあと、今度は、允陶が鞘より刀を抜く。
「宗主、白麗さまの帯を切りましょう。
このような場合は、まずは、息遣いを楽にしてさしあげることがよいかと」
この沈着冷静な男は、すでに少女の名前が喜蝶から白麗にと変わったことを知っている。そして、この先どのように慌てふためくことがことが起きようと、彼はその名を言い間違えることはない。
「そうであったな。
武芸の腕のないおまえの刀も、役に立つ場所と時がある」
有能ではあるがどこまでも嫌味な男だと思いつつ、荘興も答えた。
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