055 「無理強いはせぬが……」と、荘興は言う・4
「無断で屋敷を出たことは許されぬことではありますが。
宗主、無体なことはなされませんように。
喜蝶さまは、美しい人ではあられますが、まだ子どもでございます」
就寝している喜蝶の部屋に行くという主人に、足元を照らすための手燭を渡しながら、允陶は言った。
このあと、美しい少女の部屋でおきるであろう荘興の言動を予測しての言葉だ。
言い過ぎだとは思う。
主人の激しい叱責を覚悟して、燭台を持つ手は差し伸べても頭をさげたままだ。
「子ども……?」
手燭を受け取ろうとした手を、荘興は止めた。
そして、これ以上は何も言うまいと心を決めて、石のように固まっている允陶を見下ろす。
……旅の老僧・周壱から真白い髪の少女の話を聞いたのは、三十年前。
その時、周壱は自分が見習い小僧として仕えていた、老いた尊師の若いころの思い出話として、少女の話を語ったのだ。
となれば、あの少女は、いったい今、何歳だというのだ?
本来、あの少女の経験・知識は、我々には計り知れないものであるはず。
しかし、記憶が長く持たず、話すのが不自由。
そのために、常に誰かに守られて、生きてきたに違いない。
そしていま天は、喜蝶さまをこのわしの手に託された……
「允陶、喜蝶さまが子どもであるというのなら、なおさらのこと。
してよいこととしてはならぬことを、教えてさしあげねばな。
一刻もはやく、ここでの暮らしに馴染んでもらう必要がある。
言葉がわからぬというのであれば、その体に刻むのも、いたしかたないことだとは思わぬか?」
しかし、荘興の問いかけに、否とも応とも答えることは出来ない。
允陶はかすかに頭を下げて言った。
「宗主。足元に、お気をつけください」
隣室に控えているはずの下女たちの気配がまったく感じられない。
彼女たちはいったい何を怖れて、息をすることさえ我慢しているのか。
窓に板戸を下ろされた部屋の中はすでに真っ暗で、部屋の隅に置かれた燭台だけが、ぼんやりと明るい。閉め切っているようでかすかな隙間風が時おり吹き抜け、天井に映った灯りの影が水底のように揺らめく。
少女は身じろぎもせず寝台に横たわりながら、揺らめく影を眺めていた。
縁日の露店の賑わい、萬姜母子との出会い、甘い飴の味。
思い出せば心が躍る。
この屋敷に戻ってきた時の、萬姜母子の安堵に満ちた顔。
今日、きっと自分はよいことをしたのだ。
しかし荘興の顔つきは今までになく険しく、優しく気をつかってくれていた允陶は目を合わせようとしない。医師の永先生だけは変わらぬ調子で話しかけてきたが、彼が足に塗ってくれた軟膏はひどく傷に滲みた。
そして貞珂は屋敷を追い出されたという。
飾り棚の白い猫の像が置かれていたところには、今は何もなく、ぽっかりと黒い穴が開いている。そのことまでもが、無言で彼女を責め立てる。
今宵、いったいどちらの思いに心を寄せて眠りにつけばよいのか。
隣の部屋が騒がしくなった。
足音と着物の擦れ合う音、そして、荘興が下女たちを遠ざける声。
少女は掛布を引きあげると、顔を埋めた。
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