052 「無理強いはせぬが……」と、荘興は言う・2


 

少女を上がり框に腰かけさせて、荘興は土間にひざまづいていた。

少女のかかとを目の高さまで持ち上げて、彼は言葉を続けた。


「これはこれは、喜蝶さま。

 永先生にお願いして、傷薬をたっぷりと塗ってもらわねばならぬな。

 あの塗り薬は、効くには効くが、塩をすり込まれたかのように、ひどく滲みる」


 傍らに座っていた永但州が、すがさず言い返した。

「荘興よ、その言い草はなかろう。

 良薬は口に苦く、よく効く傷薬は滲みるものなのだ」


 固唾を飲んで見守っていたものたちの間から、笑いが起きた。

 皆、永先生の塗り薬がよく効くことと、そのひどく滲みる痛さを知っている。

 そしてまたその笑いは、自分たちの主人の怒りが収まっているらしいと知った、安堵でもあった。


 荘興が怒りにまかせて投げつけ、茶を振りまきながら転がっていった器は、まるで彼に斬り落とされて転がる生首のようだったとは、屋敷中のもの達の知るところだ。


「喜蝶さま。

 鬼子母神の縁日を、楽しまれたか?」


 少女はぱっと顔を輝かせて、今日、嬉児に教えてもらったばかりの言葉を言った。

「ア・メ!」

 

 言葉もそしてそれを教えてくれた人の顔も、時とともに記憶から抜け落ちていく。

 しかし今はまだ、『ア・メ』という言葉も、それを教えてくれた活発な幼い人の顔も憶えている。それが嬉しい。


 少女が萬姜たちを見やったので、荘興も彼らに振り返った。


「おお、そうであった。

 まだ、喜蝶さまを助けてもらった礼を述べていなかったな。

 萬姜さん、今日のことは、感謝の言葉もない。

 聞けば、戻るべき家がないとか。

 身の振り方が決まるまで、この屋敷にゆっくりと滞在されるとよかろう」


「いえ、道に迷っておられたお嬢さまに、当然のことをしたまでのこと。

 助けられたのは、こちらのほうでございます」


 このような広い屋敷に住んでいながら、みすぼらしい格好で供もつけぬ少女が外を歩いていたことには、それなりの理由があるに違いない。

 しかしそのことには触れぬ萬姜のそつのない返事に、荘興は満足して頷いた。


 洗いあがった少女の足を拭いてやりながら、再び、荘興は少女に言った。


「どれだけの者が心配し、慶央の町を奔走したことか。

 喜蝶さまは、人買いというものをご存じか。

 やつらは巧妙に人をさらい素早く他国に売るゆえに、この荘本家といえども、その実態を知るのはなかなかに難しい。

 萬姜さんが機転を利かせなければ、危ういところだった。


 それにしてもその髪は……。

 みごとに切り落としたものだな」


 声に出さずに笑った彼は、少女の足を力をこめて掴んだ。

 驚きと痛さで、少女の目が丸くなる。

 荘興はしっかりと掴んだ足の裏を、空いた片手で、そっと優しくそして執拗に撫でた。


 たえられぬくすぐったさに身をよじり、少女が声をあげる。


 人々の中から、再び笑いが起きた。

 それを合図に「皆のもの、持ち場に戻れ!」と誰かが叫ぶ。


 しかし、允陶だけは笑えなかった。


 逃げると追いたくなるもの。

 それは男と女の間ではことさらだ。


 そういうことをまだ知らぬであろう少女を哀れに思う。

 しかし、もし自分が荘興の立場であのように美しい少女を得れば、自分も彼と同じなのだと、彼は男のサガを思った。



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