萬姜、喜蝶部屋付きの下女となる
051 「無理強いはせぬが……」と、荘興は言う・1
山を背にしている荘本家の広大な敷地には、住居や厩舎や倉庫も含めて何十棟もの建物がたっていた。その様は、城壁と砦を持つ一つの村だ。
その中にあって、荘興が寝起きする建物は奥まった場所にあった。
木立ちと池と低い土塀で囲まれた瀟洒な建物だ。
渡り廊下でつながる部屋が、美しく手入れされた中庭を望むように配置されている。
しかし、病弱でそして内心では夫の生業を嫌っている妻の李香は、慶央城郭内にある本宅からここに越してくる気はない。
長男の健敬は妻を娶ってすでに別宅を構えている。そして、健敬から年が離れて生まれた次男の康記は、本宅の李香の元で我が儘に育てられている。
そのために、ここに住むものは荘興一人。
今までの彼は、夜遅く来て寝て、朝早く出て行くだけだった。
昼間の静寂は、落とした針の音すら響き渡る。
池の鯉も、水底に潜ったまま。
跳ねて水音を立てるのを怖れているように思えたほどだ。
それが、髪の真白い美しい少女が住みだしてより、庭に置かれた餌台に集まる小鳥のさえずりで、朝が始まる。
驚いた鯉は跳ねて水音を立てる。
そのことを喜んで、庭木の葉の色、咲き乱れる花の色までが、いっそう濃く鮮やかになった。
時おり、少女の走る足音が軽やかに響く。
そして、朝と夕には、少女の愛らしい仕草に誘われた荘興の笑い声がした。
いま、その荘興の住居の入り口に人だかりができていた。
瀟洒な作り合わせた狭い間取りだが、開け放たれた戸から中を伺おうと、人は幾重にも重なっている。後ろに立つものは、背伸びはしても見えていない。
集まった彼らは、少女の無事に戻ったことを喜ぶ屋敷のもの達だ。
それでも、押し合うものもいなければ話すものもいない。
咳の一つくしゃみの一つさえ、誰一人たてるものもいない。
後ろのものは見ることを諦め、ただひたすら聞き耳を立てている。
そして運よく前に立てたものは、自分の見ている光景に目を丸い皿のように見開いていた。
それは入り口から奥へと続く板の間に座った、家令の允陶と医師の永但州も同じだった。允陶は少女の無事にとりあえずは胸を撫で下ろし、永但州は、少女の部屋で見た光景を思い出し、これから起きることに思いを巡らせている。
土間の隅には、萬姜とその三人の子どもたち。
足を痛めている萬姜は、両脇より梨佳と範連に支えられて立ち、六歳の嬉児は姉の着物の裾をしっかり握って、目の前の光景を見ている。
関景だけは、少女が無事に戻ってきたとの知らせに、「ふん」と鼻を鳴らした。
「何がめでたいものか。
何が知命の五十歳か。
色に呆けたあいつに効く薬は、さすがの永先生にも処方出来ぬようだな。
付き合いきれんわ」
……と、相変わらず機嫌が悪かった。
人だかりの静寂の中で、時々、水音がする。
荘興は土間にひざまずき、湯を張った盥の中で喜蝶の足を洗っていた。
そして、低く優しい荘興の声。
「まあなんと、素足で草鞋を履き、遠出をするとは……。
擦り傷だらけではないか」
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