039 真白い髪の少女、荘興の屋敷より消える・3
布を巻いた愛笛を背負って頭陀袋を肩にかけ、素足に草鞋。
そして髪を短く切った頭に、目深にかぶった笠。
真白い髪の少女もまた、貞珂とすれ違ったことに気づかなかった。
裏門を目指していた彼女は、建ち並ぶ薪小屋の前を通り過ぎようとして、人の呻くかすかな声を聞いた。
誰かが誰かを呼んでいるような……。
誰かが助けを求めているような……。
その声に少女は当初の裏門から屋敷を出るという目的を忘れて、小屋と小屋の狭い通路へと姿を消したのだ。
荘本家の厨房に青物を卸す荷車は、二日おきに来る。
荷車の持ち主は屋号を〈青善〉という小さな青物屋だ。
早朝より、一家総出で近隣の農家を回って青物を仕入れ、それを荷車に積んで、店主の可宣が得意先を巡っては売り歩く。
大所帯の荘本家にはそれなりの青果店も出入りしているが、やはり土つきの新鮮な青物となると、〈青善〉に限る。
可宣は数軒分の得意先の青物を山のように載せた荷車を曳いてやって来る。
そして、その荷車の後ろを彼の老いた父親が押す。
父親は数年前に軽い中気を患って、足が少々不自由だ。
そのうえに、最近では年齢のせいか呆けてもきた。
そんな父親に荷車を力なく押させるくらいなら、犬にでも曳かせた方がましというものではある。
しかし最近目立ってだらしなくなった父親を、妻が嫌う。
家に置いておけば、ことあるごとに口汚く罵られるさまが哀れで、それで連れ回っていた。
荘本家に着くと、商いの邪魔にならぬようにと、可宣は父親を厨房横の薪小屋の裏に連れて行って、そこに座らせた。
夏は涼しい木陰となり、冬は温かい陽だまりとなっている。
そして、幸いにもそのあたりは人目を避けるにはよい場所でもあった。
この日も、可宣は商いを始める前に、父親をいつもの薪小屋の陰に連れて行き、そこで大人しく待っているようにと言い含めた。
誰かを呼んでいる声につられて、少女が薪小屋の後ろに廻ってみると、そこには一人の老人が蹲っていた。
自分の前に立ち笠を持ち上げてその顔を見せた少女に、呆けた年寄りは言った。
「おやまあ、なんという別嬪さんだ。
まるで、天女ちゃんじゃないか」
そして、頼りげない言葉を続ける。
「はて、この可愛い天女ちゃんは誰だったか?
ああ、いや、名前などどうでもよい。
ちょうどよいところに来てくれた。
わしは、ここで人を待っているんだが。
はて、誰を待っていたんだか……。
それより、ここはどこだ……」
立ち上がろうとして、老人はよろけて薪の束の上に倒れ込んだ。
すかさず伸びてきた少女の手が彼の体を支えた。
「おお、すまんなあ。
そうだ、そうだ。すまんついでに、天女ちゃんに頼みがある。
わしは、水が欲しかったのだ。
水……?
あっ、いや。酒だ……」
「サ・ケ!」
記憶に新しい言葉に、顔を輝かせた少女が言った。
「そうじゃ、サ・ケ……。
酒じゃよ。
持ってきてもらえるかのう?」
酒の入った甕は、昨夜、見たばかりだ。
そしてそれとよく似たものが、厨房の棚に並んでいるのを知っている。
少女は頷くと、踵を返した。
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