040 真白い髪の少女、荘興の屋敷より消える・4




 医師の永但州は、時々、病人と怪我人の治療をしに荘本家に診療に来る。

 刀を持った三千人近い男たちが出入りをしているのだから、病人も怪我人も出ようというものだ。


 この日、但州が屋敷に着くと、家令の允陶が挨拶に来て言った。


「永先生。

 宗主は急用にて出かけておられるが、直に戻って来るとのこと」


「ああ、興のやつ。

 いつもバタバタと、おのれの歳も考えずに忙しいことだ」


「それで、永先生。

 いつもの治療の前に、診ていただきたいお人が……」


 允陶の奥歯にものの挟まった言い方に、医師としての勘の良さが働いた。

「そのお人とは、お嬢さんのことか?

 いったい、どうしたというのだ?」


「喜蝶さまが、悪酔いで寝込んでおられます」


「なんとまあ……。

 もしや、興が無理強いしたか?

 お嬢さんはまだ、夜に男と酒を酌み交わすような歳ではなかろうに」


「昨晩、お二人で庭の菊の花を愛でていて、少々、度を過ごされました。

 では、お部屋にご案内いたしますれば……」


 そつのない言葉を返すと、允陶は後ろ姿を見せた。


 但州は「ふん」と鼻を鳴らす。

 允陶の言葉を鵜呑みするほどには、彼も老いてはいない。


 ……菊の花を愛でていただと。

   誰が信じるというのだ。

   興の愚か者が、おのれの齢を考えるがいい……

 





 美しく手入れされた、喜蝶の部屋の前の中庭。

 少女を慰めるために作られた餌台で、小鳥たちが賑やかに鳴き交わしている。

 すでに高く昇った陽の光は、簾の下がる軒下に、磨かれた廊下に、障子戸の桟に溜まって、温かく輝いていた。


「貞珂、入るぞ。

 永先生に喜蝶さまを診てもらうことになった。

 喜蝶さまは、もうお目覚めか?」


 返事がない。

 あまりの静寂に、胸騒ぎを覚えつつ允陶は戸を開けた。


 部屋の真ん中に、貞珂がぺたりと座り込んでいた。

 允陶に気づいて、おもむろに首を回して表情のない顔を上げる。

 まるで死人のような目だ。


 異変に気づいた允陶は垂れ幕を跳ね上げて、奥の寝室に飛び込んだ。


 寝室より戻り、再び、女の前に立った允陶が言った。

「何があった?

 喜蝶さまは、どこにおられる?」


 聞こえているのか、いないのか。

 女は半開きの唇をわななかせ、瞬きを忘れた目で宙を見つめたまま。


 業を煮やした允陶が、女の髪を掴んで仰向かせた。

 大きく振りかぶった手で、女の頬を張る。

 そしてもう一度、返す手の甲で先ほどより激しく張った。

 しかし、我に返った貞珂は「お嬢さまが、お嬢さまが」とくりかえすのみ。


 これでは埒が明かないと、髷をつかんでいた手を離すと、女はボロ布のように形なく床に崩れ落ちた。


「誰か、誰か、おらぬか!

 閉門だ、閉門だ!

 この屋敷より、蟻の一匹出すな!」


 允陶の大きな声と荒い足音が遠ざかる。






 永但州は、蝉の羽根のように軽く透き通った寝室の垂れ幕をそっと引き上げた。


 部屋の壁に沿って、箪笥や飾り棚が置かれている。

 朱色の漆に螺鈿を施されたそれらは、美しい少女の部屋にふさわしい。


 奧の寝台には、赤い布団が広がっている。

 色糸で刺繍された邪気を払う目出度い飾り文字が、ここからでも読める。

 そして傍らの机には、可愛らしい髪飾りが並べられていた。


 老いの入り口に立つ友の、少女へのいかんともしがたい想いが溢れていた。


 しかしと、但州は足元に視線を落とす。

 薄緑色の美しい着物の上に散らばった真白い髪は、それに対する少女からの答えであろう。


 


 

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