036 允陶、喜蝶に心をよせる・5



「今は忙しく、喜蝶さまのお相手が出来なくて、申し訳ない。

 いつまでも、屋敷内に閉じ込めるつもりはないのだが……」


 胸の中に引き寄せるのは早急と思い直す。

 未練を覚えながらも少女の着物の袖から手を抜き、酒を自分の盃に注いで少女の空の盃も満たした。


「そうだな……。

 慶央を北に行った山の中に、荘家の湯治場がある。

 初雪の降る頃、喜蝶さまをそこへ連れて行こう」


 地名とか湯治場とかの言葉を理解するのは難しいようで、少女は小首を傾げた。


「その湯治場では、人はもちろんのこと、傷ついた鹿や猿も来ては湯に入る。

 静かで鄙びたよいところだ」


 知っている言葉を聞いて、顔が明るく輝く。

「サ・ル!」


「おお、そうだ。

 喜蝶さまは、猿が好きか。それはよかった、よかった」


 そこで言葉を切った荘興は、隣の部屋を振り返った。

 そして、戸の影で、身じろぎもせず控えている允陶に声をかけた。


「あと一か月もすれば、山は雪だな。

 喜蝶さまを伴って、久しぶりにのんびりと湯に浸かろうと思う。

 允陶、いつものように手配を頼む」


「仰せの通りに……」


 返事を聞いて、再び少女に視線を戻すとすでに盃は空だった。

 また、酒を注いでやる。


「サルとは言えるのか。

 では、ソウコウは、どうか?

 そろそろ、喜蝶さまには、わしの名前を覚えて欲しい」


 しかし、再び、少女は小首を傾げる。

 人の名前を覚えるのは難しいのか……。


 少女の白い顔が、薄い花の色のようにほんのりと上気している。 

 潤んだ目で、問いかけるようにすがるように見つめてくる。


 彼の体の中の男が否応なく反応した。

 

 少女は、まだ、男を受け入れるには未熟であるのかも知れない。

 しかし、その心と体に少しずつ教えなければ。

 男が女を求め庇護する想いの先に、何があるのかを。


「今宵の酒は飲み尽くした。

 そろそろ、ともに寝所へ戻ろう」


 その言葉に艶やかに笑い、大きく頷く。

 その愛らしさにこらえきれずに、再び手を取ると、なんの抵抗もなく少女は胸の中に倒れ込んできた。


「おお、そうか、そうか。

 喜蝶さまの気持ちはよくわかった。

 この荘興、嬉しく思う」


 重たく胸の中にあずけてきた真白い頭を優しく撫でる。

 この様子であれば、その頬に軽く唇をよせても嫌がりはしないだろう。

 顎に手をかけ、その顔をこちらに向かせようとした。


「そのように、恥ずかしがらなくともよい。

 喜蝶さまは、何ものにも替えがたいわしの宝なのだからな」

 

 胸の中の少女の頭はずるずると下がっていく。

 やがて、あぐらをかいた荘興の股間の上にすっぽりと収まった。


「おお、喜蝶さま。

 嬉しくは思うが、それは、寝所で……」


 予想を超えた展開に、したたかに酔っている荘興の声がうわずる。


 しかししばらく待っても、少女の頭は股間に収まったままでぴくりとも動かない。そっと動かしてみると、その首はがくりと折れて垂れ、鼾を掻き始めた。


「しまった!」

「なにごと!」


 荘興の叫びに、間髪をいれず声を上げた允陶が立ち上がった。





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