035 允陶、喜蝶に心をよせる・4

 


 下の少し欠けた月が、慶央の黒い中空にぽっかりと浮かぶ。

 夜露はすでに、菊のほころび始めた花弁の先、葉の先に降り始めている。

 秋の虫さえ、喜蝶の笛の音に聴き入り鳴きやんでいた。


 朗々と響き渡る笛の音が、耳を傾けるものすべてを真の静寂で包む……。

 終わりがないと思えた余韻を、荘興がほめたたえて叩く手の音が破った。


「さあさあ、喜蝶さま、こちらに来て座れ。

 一献、差し上げよう」


 それに応えて、翻した衣擦れの音と軽やかな足音が響く。




 


 卓上には向かい合わせに盃と肴が並べられていた。

 しかし、荘興は手を伸ばせば届く傍に少女を招く。

 そして、喜蝶のための空の盃を引き寄せ、酒を注いだ。


 すでに手酌で杯を重ねていた。

 喜蝶が素直に座り盃を受け取ったので、もともとの機嫌のよさにさらに機嫌よさを加えて、上機嫌だ。


 盃を少し口にして、馴れぬ酒の味にしかめた少女の顔が愛らしい。

 それで、顔をしかめた後、盃を傾けてくいっと空けたさまに驚きつつも、また注ぎ足してやる。


 少女は、再び、一口で盃を空ける。

 三杯目もまた……。


「確かに、美味い酒ではあるが。

 そのように、杯を重ねるものではない」


 さすがに四杯目を注いだのち、空となった盃を取り上げて卓上に戻した。


 盃を取り上げた手を、そのまま両の手で包みこんで尋ねる。

「この屋敷の暮らしに不自由を感じてはいないか?」


 少女はその言葉に素直に頭を振る。

 そして、荘興にとられた手を引こうか引くまいかと、悩む様子をみせた。


 屋敷に住み始めた頃は、荘興の言葉に見返すだけだったが、いまは感情が豊かに表れるようになった。


 言葉が話せない不自由さを感じさせない。


 形のよい眉毛が上下に動く。

 金茶色の目が明るく輝き、時に深く曇る。

 可愛らしい唇が開いてすぼまり、白い歯が見える。

 それらの動きに、心内を雄弁に語る声色を聞いた気がする。


 自分の両手に包まれた少女の手を、荘興は見た。

 節の太く陽に焼けて黒い指に、少女の細く白い指が絡んでいる。

 その滑らかな手の甲を撫でて、その感触をひそかに楽しむ。


 彼はそっと、少女の着物の袖口に手を差し入れた。

 このまま引き寄せ、その薄い肩を抱いてもよいものだろうか。

 




 

 三十年昔のことだ。

 荘興が旅の僧侶・周壱から〈真白い髪の少女〉の話を聞いたのは。


 それ以来、自分自身にすら説明しがたい想いに捉われて、彼は少女を追い求めてきた。


 しかし、三十年という月日は思いのほかに長い。


 金銀玉をちりばめた人型の美しい置き物。

 美しい女人を描いた一幅の絵。

 彼は、真白い髪の少女のことを考えるたびに、それらを頭の中で思い描くようになっていた。


 置き物や絵であれば、手に入れたあと部屋に飾ればすむこと。

 そして、朝夕に眺めて愛でればよい。


 しかしいま、〈真白い髪の少女〉を手に入れた。

 そして、当然ながら、少女は柔らかい肌に血の通う人だ。


 果たして、置物や絵のように眺めるだけで、〈真白い髪の少女〉を手に入れたことになるのだろうか。


 <真白い髪の少女>は美しい女で、自分は男だ。

 今更ながらにそのことに気づき、彼の血がざわざわと沸き立つ。




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