034 允陶、喜蝶に心をよせる・3



 李香を娶って二十五年の間に、荘興は彼女と間に二男一女を生した。


 長男の健敬は、年が明ければ二十五歳となる。

 すでに妻帯して、別所帯を構えている。

 今は荘本家宗主二代目となるべく、修養と鍛錬の日々だ。


 一人娘は泗水の李香の親戚に嫁いだ。


 そして、長男長女のあとに遅く生まれた十三歳の次男の康記は、本宅で母の李香とともに暮らしている。

 康記を産んだ後に李香は病を得て寝たり起きたりの日々となった。

 慶央街中の一等地にある荘家本宅で、夫と離れて暮らす彼女の心を慰めるものは、末子の康記だけだ。


 長男である穏やかな気性の健敬は何事も中庸を好む。

 荘本家を継ぐものとしては物足りなさもあるが、よい補佐をつければ十分にその役目を負うことは出来るだろう。


 心配なのは、末子の康記だった。


 病身で内心では夫の生業を快く思っていない李香に、溺愛されている。

 その上に、荘興が留守がちなことをよいことに、李香の腹違いの弟の園剋が本宅に住み着いてしまった。良からぬ心根の持ち主である彼が、姉の弱った心の隙につけ入り康記に悪い影響を与えている。


「いずれはなんとかしなければ……」と、荘興は思う。

 しかし、医師・但州の手厚い治療を受け、かろうじて小康を得ている李香には言い出せないことだった。






 慶央の秋も深まった。


 夜も更けてから、数日の間、仕事で屋敷を留守にしていた荘興が戻ってきた。

 難しい案件が片付いた。

 上機嫌で、少々、酔ってもいる。


 慶央に新しく赴任してきた太守が若く、前任者たちのように、荘本家に委ねた統治を継承することに難色を示した。

 初めは長男の健敬に任していたが、うまくことが進まない。

 相談を受けて、彼自身がことにあたった。


 表立っては言えない荒っぽい手を使った。

 家柄を鼻にかけた生意気な若造の顔が見る見るうちに青ざめた。

「そろそろ家督を譲ることを、考えられる年齢では……」と、ことあるごとに仄めかす本宅の園剋の取り巻きが、今回は口を閉ざしたままなのも気分がよい。


 奥座敷の戸は開け放たれていた。

 煌々とした月明りに照らされた庭から、菊花の香りが漂ってくる。


「ご帰還は、明日になるかと思っておりました」

 主人が携えていた刀を受け取りながら、允陶が言った。


 しかし、心ここにあらずの主人は言った。

「喜蝶さまは、どこだ?」

「貞珂の世話を受けて、就寝の着替え中かと」


 心が急くのは、喜蝶の笑顔が見たいのか。

 笛の音が聴きたいのか。

 彼女に触れてみたいと思う欲望なのか。

 たぶんその三つとも正解なのだ。そのために三十年待った。


 案内も請わず喜蝶の寝所に入る。

 少女は貞珂に手伝われて、寝衣に着替えている最中だった。


 湯浴みを済ませたばかりのようだ。

 湯の香料と混じって、体温の上がった少女の体から立ち上るよい匂いが、閉め切った部屋に満ちていた。


「喜蝶さま、笛を聴かせてくれ。

 そして、一献、差し上げよう」


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