033 允陶、喜蝶に心をよせる・2
「今日の喜蝶さまは……」
燭台の灯りがやっと届く部屋の隅に、平伏し畏まった女が言う。
「貞珂、楽にせよ」
「あっ、ありがとうございます」
机の上の書き付けから目を上げて、允陶が言った。
その言葉におずおずと顔を上げた貞珂だった。
しかし、緊張のあまり声はかすれ、目はあらぬ方向を向いたままだ。
真白い髪の少女が荘本家屋敷に囲われて、一か月が過ぎようとしていた。
屋敷から出ることを許されていない少女は、日がな一日を屋敷内を歩き回って過ごしていた。ここ荘本家の屋敷は広大だが、出入りするのは大人の男ばかりで、働いているのも大人の女ばかりだ。
少女と同じ年ごろの遊び相手はいない。
そのせいで、厩舎・犬舎がお気に入りだ。
今では、馬や犬が少女の訪れを落ち着きなく待っている様子。
そして、ネズミ捕りのために、屋敷のあちこちに住み着いている猫。
「猫を追いかけて縁の下に潜られたお嬢様の白い髪に、白い蜘蛛の巣が絡みまして、そのあと、きれいにしてさしあげるのが大変でございました……」
その言葉に允陶がかすかに笑ったが、ひれ伏している女は気づかない。
それから、厨房。
忙しく包丁を振るい鍋をかき回す女たちの手元を覗き、出来上がった料理の味見をしてまわる。
「喜蝶ちゃん、ちょっと切ってみるかね」
「喜蝶ちゃん、これ、食べてみるかい。美味しいよ」
今では厨房の女たちに可愛がられている様子。
それから、洗濯場。
これは、洗いあがり乾いた着物を盗るためだ。
取るのではなく、竿に干された下働きのものたちの着物を盗る。
それらは、麻布で織られ、木の皮で茶色く染められ、そのうえにあちこちに
『彩楽堂』が見立て誂えた染めも刺繍も華やかな着物を、少女は着ようとしなかった。
朝、貞珂が着せようとしても、癇癪を起して脱ぎ捨てる。
美しい着物に合わせた簪も、髪から引き抜いて投げ捨てる。
そして盗ってきた粗末な着物を、自ら着る。
言葉が話せないので、何が気に入らないのかわからない。
彩楽堂は、慶央でも指折りの老舗だ。
長年、上客を相手に着物を見立て誂えてきた。
少女が袖を通そうとしない着物が何枚か溜まって、ついに彩楽堂の主人が言った。
「喜蝶さまのように美しいお嬢さまに気に入ってもらえないとは。
まことに、彩楽堂の名折れ。
喜蝶さまが喜んで袖を通していただく着物を納める日まで、お代を受け取るわけにはまいりません」
貞珂から報告を受けるこの時間が、気の休まる時のない允陶の唯一の楽しみだ。
しかしもう言うことはないようで、女が沈黙する。
允陶が言った。
「喜蝶さまに着物を盗られたものには、新しいものを支給するように、手配しておこう。もう下がってよい」
一日を屋敷内で遊びまわり、夕刻になれば湯浴みして、荘興の前で笛を吹き、彼の甲斐甲斐しい世話を受けて夕食を共にする。
そしていまは、舜 庭生が納めた美しい調度品が設えられた部屋で、真白い髪の少女はどのような夢をみているのか。
飾り棚の端に置かれているあの猫が、その安らかな眠りを見守ってくれればよいがと、彼は思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます