027 趙藍と蘆信、異国の空の下に死す・その1




 笛の音が止むと同時に、趙藍は床にひれ伏した。

 今までの道中の礼を述べ、そして永遠の別れを彼女は喜蝶に告げた。

 それを見届けた荘興は喜蝶を抱きかかえるようにして、連れ去って行った。

 蘆信は茫然と突っ立ったままだった。


 「お代はすでに荘興さまからいただいております」

 千松園の亭主の言葉ですら、思い出すたびにはらわたが煮えくり返る。


「荘本家宗主とか偉そうに名乗ったところで。

 もとは卑しい口入れ屋稼業だろうに。

 そのうえに身の程を知らぬ年寄りではないか。

 この五年の旅の間には、高貴な者や富貴な者からも、我が屋敷に末永く留まるようにと懇願されてきたものを。

 よりによってあのようなものに喜蝶さまを託すとは……」






 研水を発って、すでに三日目の夕刻。


 「馬車を使われないのでしたら。

  少し険しくはなりますが、山を抜ける近道がございます」


 昨夜泊まった客桟の亭主が親切に教えてくれた。

 しかし、こうも寂しい山道だと迷ったのではないかという不安がよぎる。


「姉上、引き返しましょう」

「まあ、いいではありませんか、急ぐ旅でもなし」


 のんびりした口調で趙藍が答える。


「帰路の土産話に、安陽の都でしばらく遊んで……。

 それからまた東に行って、海というものを見るのもよいですねえ」


 これまた明るく続けたので、蘆信の怒りはますますつのった。


 そのうえに、喜蝶を荘興に託したのは、西華国を出る前に告げられた銀狼教の寧安上人のお言葉に従ったからだと聞かされればなおさらだ。


 西華国の開国以来、銀狼教は祭祀儀礼の一切を取り仕切っている。

 その最上人である寧安上人は、未来を見通せ、天の声も聞こえるとか。


「御上人さまが言われたのです。

 喜蝶さまを託すものは、どこの誰とは言えないが、出会えばわかる。

 そのためにも、中華大陸の東を目指して、ただひたすら歩けと。

 そして荘興さまに出会って、御上人さまの言われたお人だということが、私には一目でわかりました」


 西華国で生まれ育った蘆信も、銀狼教には畏敬の念を持っている。

 その寧安上人のお告げに、いままで疑問を持ったことはない。

 しかしまさかこの旅の最後に、そのお告げが自分の身に降りかかってくるとは。


 道端の石を蹴り、拝領の剣を抜いて辺りの草を薙ぎ払う。

 それでも彼の心は嵐の日の水面のように激しく波立つ。


「こうなれば、慶央まで引き返して、喜蝶さまをとりかえすのみ。

 喜蝶さまも不安な日々を過ごされているに違いない」


「心配には及びません。

 荘興さまのお屋敷で、喜蝶さまはすでに新しい生活を始めていらっしゃることでしょう」


「なんという呑気なことを」


「おまえも知っているしょう?

 どのように深く激しく悲しまれても、喜蝶さまの想いは長く続きません。

 そういうお人ですから」


 確かに、言葉の不自由な美しい少女はまた、その記憶も時間の流れとともにはかなく消えるのだ。


「姉上は呆けられたのか?」


 蘆信は悪態をついた。


 彼はまだ姉の胸の内の秘密に気づいていない。

 銀狼教の寧安上人が告げたことでまだ一つ、肝心なことを趙藍は弟に言っていない。









 

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