020 徐平、父の文を懐に荘興に会う・2



 明けの刻を告げる一番鶏の鳴く声が聞こえてくる。


 客桟・千松園の亭主・徐黄正は眠れぬ夜を過ごした。

 昨晩、ほの暗い燭台の灯りのもとで勢いにまかせて書いた荘本家宗主・荘興宛ての文のせいで、彼は眠れなかったのだ。


 荘本家傘下にある客桟の千松園には、年に一度、年の初めに荘本家から文による申し渡しがある。客桟の亭主としての心得や上納金についての決まり事などが書かれた約定書だ。


 その最後に必ず、荘興自らの直筆で書かれた一文があった。


 『髪が真白く笛の名手である美しい少女を見かけるなり、その噂を聞いたものは届けるように。十分な礼金が支払われるであろう』


 黄正が千松園をあずかった時より、文言は一言一句変わっていない。 






 荘興は、この千松園だけでなく、彼の傘下にある客桟・妓楼・酒館などすべてにこの一文を配っている。


 初めは、礼金目当てに荘興をだまそうとする不心得者が多くいた。


 それもあって、荘興の<真白い髪の少女>探しの道楽を、荘本家の者たちは皆、憤懣ふんまんやりかたなく思っていた。

 また、黄正のように荘興に恩義をおぼえる者も、この一件にだけは、彼がころりとさまもなく騙されているように思えて、苦々しい。


 しかしながら、まさかまさか。

 この自分が、真白い髪の少女について、荘興さまに文をしたためることになろうとは……。



 喜蝶という名の少女の髪が真白く、またその容姿の愛らしさは、実際にこの目で見たので間違いはない。

 ただ、笛を吹くのかどうかは、確かめていない。

 笛らしきものが入っている錦の袋を見た。

 

 少女に笛を吹いてくれとは頼めない。

 いろいろと立ち入り過ぎたようで、蘆信という若い男を警戒させてしまった。

 千松園に数日滞在するとは言っていたが、気が変わった男は女二人を連れて、今日にでも旅立つかもしれない。



 すべて、包み隠すことなく彼は文にしたためた。






 客桟の朝は早い。


 隣で寝ていた妻はすでに起きている。

 通いの下働きのものたちにあれこれと指図している声がする。

 また朝餉の用意に忙しい調理場からは、よい匂いも漂ってきた。


 黄正はその調理場に向かって言った。


「高を呼べ。……、……。

 いや、平だ、……。平を呼べ」


 十五歳になる次男の平は兄の高と違い、客桟の仕事に熱心ではない。

 庭を掃き清めよと箒を持たせれば、目を離した隙に、それを松の木の幹に打ちつけて剣術の真似ごとをする。


 それならばと、調理場に立たせれば、これがまた、めったらやたらと包丁を振り回す。平にとって獣の肉や川魚や野菜は、調理するものではなく、「えいっ、やっ」と、掛け声とともに切り刻むものであるらしい。


親父オヤジさま、危な過ぎて、平は調理人にはむいていません」

 と、高は言う。


 千松園には、荘本家の者たちが高の料理を食しに来ることがある。

 そういう日には、平は用もないのに部屋に出入りしたがった。

 兄の高が、荘本家屋敷に上納金や川魚を届ける時も、ついて行きたがる。


 荘本家に憧れているのは、聞かなくてもその様子を見ればわかる。


 黄正としては、高にも平にも客桟の仕事を継がせたかった。

 大切な息子を荘本家にあずけて、危険な目に合わせたい親などいるものか。


 だからこそ、文を託すのは高ではなく、乱暴者の次男・平なのだ。






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