或る帰り道

@re_n25

或る帰り道

 我が県の天気予報は当てにならない。県民の認識として、空が多少曇っていても雨が降っていなければそれは晴れである。余りにも快晴が少ないのだ。

 しかし、今日の天気はそんな諦念の入り混じった晴れではなく、快晴であった。立山は高層ビルの少ない市街地の向こうに壁画の様に張り付いていた。頂の方には白い靄があるものの、稜線のみならず山肌のざわざわした部分までくっきり見えた。

 私は久々に自転車を引っ張り出し空気の圧が不足していないかを確認し、いつもの喫茶店に繰り出していた。マーロウの私立探偵としての手際の良さを堪能しているとページと時間が進んでいた。


 顔を上げると外には灯りがぼんやりその存在を辺りに知らしめていた。暗くなるのが早くなったものだと外に出ると土砂降りではないもののかなり強い雨が降っていた。外がぼんやり見えたのはどうやら灯りのせいだけではなかったらしい。あの快晴は昨日の事だったのではないかと思考が出発時点に立ち返る。あの立山は本物だった。

 身を震わせる寒さはまだしも、突然物質的な冷却をもたらす雨にうんざりしながら籠に挿しておいた傘(これはあまり宜しくない)を開いて片手でハンドルを握る。大玉に乗った曲芸師がそうするように駐輪場に向いた前輪を道路に向けペダルを踏み出した。

 車道からは目をぎらつかせたマシンが頭上の水滴を弾き飛ばし、足元の水をバケツで掬うようにこちらに浴びせてくる。それを避けながら県道を反れ、市街地の交差点に差し掛かった。

 私はそこに至るまでの道中考え事をしていた。別れた彼女の親友の事である。その親友は実に話をよく聞いてくれ、私の立場を理解してくれていた。その反動で別れた彼女の身勝手さをも思い出した。自己を曲げない性格は時として美点であるが私には合わなかったのだろう。恐ろしい事に彼女の身勝手さは無意識からくるものだった。自分はなかなかどうして相性の悪い相手と関わっていたのだろう。全てを後悔する事はないものの私は何をやっていたのだろうか。

 子供が公園の砂場で城を作って遊んでいる。すると公園を区切る煉瓦塀の隅にしゃがめば通れそうな台形の穴が開いていているのを発見する。子供は引き寄せられたようにふらふらと近付き、そこから暗く乾いた地下の世界に入って行ってしまうような、そんな立ち入ってはならない領域に自分は居たのではないかという気がしてくる。

 しかし、目の前の現実ではもう少しで点滅するであろう信号機が身をうずうずしながら控えていた。私は加速した。横断歩道と垂直に市内電車の線路が交差していた。しかしその段差をものともせず、このために空気圧を確認したのだとばかり、私の自転車は鈍いゴムのうねりをあげながら跳躍した。傘は片手に持ったままである。私はきっとナポレオンの像のように見えただろう。ナポレオンの時代に傘をさしながら馬に乗る人間はいたのだろうか。信号を渡った安堵感と信号が変わればまた出発しなければならない懸念とに思いを巡らせていると、角にあるワインを売りにした居酒屋の隣にシャッターの降りたタバコ屋がある。その雨樋の下に若い女がいた。顔はよく見えなかったが、白くて四角いタオルか何かを頭の上にかざしていた。雨と暗闇に覆われ服装は真っ黒にしか見えなかった。タオルの下からは赤い唇が必要以上に赤く見えた。

「この子は徒歩でこの雨の中を帰るのか。自転車の自分ですらこの雨はこたえる。」

 そう思うと同時にその女がまだあまり濡れていないように感じた。どういう経緯でこの状況になったかは分からないが今傘を渡せば女は濡れる事なく帰れるのではないか。

 しかし、声も届かないほど雨の降りしきった道端で急に話しかけるのはいかにもそぐわない事のように思われた。信号はそんな私の迷いは知らぬとばかりに表情を変える。止まれ。そして進め。

 私はそれに従った。傘を片手にローマ兵士のようにチャリオットを進めながら、私は横断歩道半ばで一度振り返った。そこには付き従う軍勢など存在せず、代わりに女は雨樋から遠慮がちにその足を横断歩道へと踏み出していた。私は既にチカチカ光る司令本部の下にいた。止まれ。そして進め。私はまだ傘を渡そうか悩んでいた。もう一度今渡った横断歩道と直角にある反対側の歩道へ渡る信号で止まろうと考えた。しかし、それでは何の為にお前はこちら側へ来たのかと思われそうである。私は鈍牛のように自転車を進めた。早く私を追い越してくれと言わんばかりに。

 しかし、女はまとわり付く雨を振り払うのに必死である。私はもはやペダルをこいでいなかった。これでは付きまとい行為と思われそうである。もう一度振り返った。女は流石にこちらを見た。まずいと思い私は目指すべき方向を見てペダルをこいだ。三メートルほどの地点である。やはり辞めて大人しく帰ろう。そう思った矢先、私は急停止した。私と女はもう随分距離が空いていたが、急に何かの力に引っ張られるように振り向いて私は言った。

「傘、要りますか?」

 私はそれを生業としている商人のように言っていた。女はひどく驚いた様子だった。

「え、そんな、良いですよ!」

「家ほんとすぐそこだし、駐輪所に傘たくさん余らせてるくらいだから。」

 私はわざわざ傘在庫の豊潤さのアピールと濡れても構わない事の申し開きをしていた。女の顔はこの時にはっきりと見えた。髪は長く、色は茶色で目がぱっちりとした端正な顔立ちだった。

「家、近いんですか?」

 向かう方向にあるのはでかい駅だ。そんな場所に住んでいるのはホームレスぐらいであろう。

 しかし女はその条件さえ通過すれば傘を受け取りそうな気配を醸し出していた。

「近い近い!本当にすぐそこ。」

 言い終えて私は傘を閉じて渡した。なぜわざわざ閉じたのかは分からない。女は素直に受け取った。雨が頬を撫で始めた。

「本当に良いんですか?すみません、ありがとうございます。」

 女は申し訳なさそうな顔をしていたが、自分の方が既にいたたまれなくなっていた。

「その傘は適当に処分しておいて!」

 私は不自然に笑いながらそう言い置いて、フードを頭に被り目指すべき道に自転車を走らせた。後ろに女の視線を感じながらあえて普段は通らない脇道に曲がった。

 何故、自分はこんな事をしてしまったのだろうか。良い事をした後の満足にはその満足した自分への嫌悪が手を繋いでやってくる。良い事をしたのはありがとうと言った向こうである。私は私が満足するためにあの傘を手放した。女の存在を無視して家に着き温もりを得た時分に、徒歩でずぶ濡れになって帰る女を想像するのが嫌だったのかもしれない。あるいは、その女の僅かに見えた唇の大元の化粧で整った顔が崩れる事を恐れていたのかもしれない。あるいは、私は別れた彼女とは違って自分勝手ではないと誰かに証明したかったのかもしれない。

 しかし、私は自分のためにやった事だと自覚している。自分勝手がたまたま功を奏した様なものだ。私はいつも後悔をしない選択をしているつもりだが、結局のところ自分がその都度満足する選択肢を辿っているだけだ。相手が男性であったなら私は傘を渡していただろうか、女がありがとうと言わなければどうだったであろうか。私はそんな下らない事を考えながら、自らと同じように濡れ聳える樹木の様なビルの合間を縫って帰宅した。

「あんた、そんなずぶ濡れでどうしたの。」

「急に雨が降ったものだから。今日は傘を持って行かなかったんだ。」

 私は今日何度嘘をついたのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

或る帰り道 @re_n25

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る