1.
「おい、おい
彼はいつも辺りをはばからぬばかでかい酔客の声で呼び止められる。
何しろ彼の家へいく路地は彼らによって封鎖されているのだ。
彼は、煩わしくもあり、しかし内心嬉しくもあった。李は上海から一人で出てきて、この町にたった一人で住んでいたから。
彼の家は、国道の流れから少し奥まったところにある。ただ寝るばかりの風呂無し、共同トイレのアパート。そのねぐらへ至る途中に彼にとって一つの関門があった。それは狭苦しいバーだった。カウンター席しかなく、椅子は四つしかない。
客が五人以上入ると椅子を外に出して立ち飲みになる。いつも十人近くいたから客は外にあふれて道ばたに座ったり隣のマンションの植え込みに腰掛けたり。マンションの住人からグレープフルーツを投げつけられたこともある。深夜まで客が酔ってうるさいからだ。
彼が最初にこの店に入ったのはいつだったか。
特に騒々しい日だった。クリスマスか正月だったかもしれん。あまりにも大勢で、陽気に騒いでいたので、一人くらい紛れ込んでもかまやしないかとふと思いついたのだ。
一度入ってしまうとなんということはない。
李もまたこの店の常連の一人になってしまった。
年中日当たりの悪い部屋の中で、じんわり湿った畳の上にせんべい布団を敷いて目を閉じると、寄せては返す波の遠鳴りのように響いてくるのは、国道と、その上を通る首都高を車が走る音だ。ここらで首都高は何車線も合流し、二階建て三階建てになっている。彼はその奔流の最下層に棲んでいる。上の層や下の層、遠くや近くから響く車の走行音が重なり合って、まるで潮騒のように、薄い壁のアパートに寝ている彼の枕元に届くのだ。
彼は自分が、西遊記に出てくる、流沙河の底に棲む沙悟浄になったような気がした。日も差さぬ、大河の底に棲む何千何万という化け物の中の一匹になった気がした。そして不思議なことに、窓の外に絶え間なく走る車の音を聞き、窓にちらちらするヘッドライトの光をながめ、排気ガス混じりの空気を吸っていると、心が静まって、気持ちよく眠りに落ちることができるのだ。それもまた自分が化け物という賤しい種族であるが故にこんなひどい環境に適応して心地よさを感じるのだと思われた。
「李。おまえどうしてこの町に住むんだ。この町じゃおまえくらいしか中国人は見かけないが。池袋かどこかにすめばいいんじゃないか。仲間がたくさんいるほうが、暮らしやすいだろう。」
「僕は、中国人どうしでつるむのが嫌いです。」
「へえ、どうして。」
「僕はあいつらが大嫌いです。中国人だけで集まって中国語しかしゃべらない。」
「ふうん。そういうもんかねえ。」
ある中国語会話に興味をもっていた男が、李と練習に中国語で話したがったが、李はむすっとして、のってこなかった。単にめんどくさいとか非協力的というのではなく。中国語で話すのが彼にとって非常に不愉快なことであるかのように。
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