09 ポツンと
その人は、暗闇の中にポツンと座っていた。
昼間なのにじっとりと暗い書斎の真ん中、叱られた子供のように膝を抱えて。
時折震える肩が、痛みに耐えているように見えたから、思わず声を掛けた。
「おじさん、どこかいたいの?」
弾かれたように顔を上げて、驚いたように目を瞬かせる。その目元が祖母そっくりだったことを、今でもはっきりと覚えている。
「痛い……? ああ、いや。どこも痛くない。大丈夫だ」
穏やかに答えてくれたその人は、三十代半ばの男の人だった。見覚えはないけれど、ちょうどお盆休みで色々な人が挨拶に来ているから、きっと親戚の誰かだろう。でも、お正月でもないのに着物を着ているなんて変なの。その時は、そんな風にしか思わなかった。
「ここは立ち入り禁止だと言われなかったかい?」
咎める風でもなく尋ねられて、えへへ、と笑ってごまかす。そう、書斎には入ってはいけないと、祖母から口を酸っぱくして言われていた。でも、そう言われたら余計に気になるのが子供というもので。好奇心を抑えきれず、家族の目を盗んでこっそり忍び込んだのだ。
立ち入り禁止のはずなのに、不思議と鍵はかかっていなかった。あっさり開いた扉に、拍子抜けしたくらいだ。
「まあ、入れたのなら、もうお前を咎める者はいないだろう。でも、長居するのは止した方が良い」
「どうして?」
そう問えば、どこか困ったように頬を掻いて、その人は声を潜める。
「私はね――間に合わなかったんだ」
刹那、冷たい風が吹き抜けた、そんな気がした。ぐん、と周囲の温度が落ちて、むき出しの腕がぞわり、と震える。まるで雪に閉じ込められたように、しんと静まりかえる書斎で、その人は「ああ」と悔恨の息を吐く。
「お前は、私のようになってはいけないよ」
静かな声が、穏やかな瞳が、なぜか恐ろしくて。
震える体を抱きしめるようにして、その場から走り去った。
寒いのか、怖いのか。それとも――悲しいのか。
幼い私にはよく分からなくて、とにかく走って、走って――。
「香澄!? お前、一体どこにいたんだい」
どうやら家中探し回っていたらしい祖母の姿を目にした途端、ほっと気が抜けたのだろうか。
祖母にすがりついて泣きわめいた私は、そのあと熱を出して、三日ほど寝込む羽目になった。
「だから、立ち入り禁止だと言ったのに」
熱に浮かされながら、祖母の声を聞いた。
「お前は私に似て力が強いから――きっと書斎に入ってしまうと思ったんだよ」
濡れ布巾を取り替えてくれた祖母は、困ったような、でもどこか嬉しそうな、不思議な顔をしていた。
「おばあちゃん。あのおじさん、だあれ?」
「ご先祖様だよ」
祖母はそう教えてくれたけれど、幼い私には言葉の意味が分からなくて。更に問いかけようとして、口に指を当てられた。
「大きくなったら、きちんと教えてあげようね。今はとにかく、ゆっくり休みなさい」
優しく頭を撫でられて、ふわふわと眠りの淵へ向かう。
そうして夢と現の狭間で、誰かの声を聞いた。
「和臣様、庭の椿が花を咲かせましたよ」
「ああ、本当だ。
「はい! とても綺麗ですね」
若い男女二人の、何気ないやりとり。
ああ、きっとこれこそが――彼にとって、一番幸せな記憶。
「和臣さん。いい加減、そこから出てきたらどうですか」
「無理だ。私には出来ない。どの面下げて顔を出せばいい。ああ、私は――」
「はいそこ、現実逃避しない!」
「……ううっ、子孫が手厳しい……」
あれから十数年が経ってなお、今も書斎で一人、ポツンと膝を抱えている彼は、再三の提案をひたすらに拒絶し続けている。
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