SIDE OF  


「どうやら、目を覚ましたみたいだね」


 豪華絢爛、煌びやかで、まるで応接室のような部屋の天蓋付きベッドには、ヒュウガが倒れていた。頭を抱え、唸りながらもぞもぞと動いていた彼は、フローベルの顔を見た途端、肩を跳ねあがらせた。ベッドの端へと後ずさる彼に、大天使はにっこりと笑んでティーカップを差し出した。


「どうぞ。心休まる僕特製のブレンドだ」


 その笑みには、心からの親切が込められているように思えた。だがヒュウガは、そのティーカップには反応せず、彼をきっと睨みつけた。


「……俺になんの用だ。なぜこんなところに連れてきた」


 牙を剥いたヒュウガの体には、震えが走っている。大天使はティーカップをベッドに乗せると、口の端を僅かに上げた。


「僕たちの神を、君も知っているだろう?」


 ヒュウガは小さく頷いた。


「我らが主は偉大なお方だった。穢れを閉じ込め、空に楽園を築いたんだ」


 穢れに触れていない生物だけを金の方舟に乗せ、地上へと飛び立った神の使途。神は天井にもう一つの世界を築き上げ、使途とともに原罪なき世界を生み出した。

 しかし、と大天使は声を低くさせた。


「その楽園は地下の穢れによって壊された。そして主は、奴らに封じられてしまった……」


 穢れとともに地下に閉じ込められた悪魔たち。悪魔はその力をもって、地上上空にできた天井を破壊した。そして、神と、神の使途たちを、水晶の中に閉じ込めたのだ。


「その封印は、悪魔の力でないと解けないようになっているんだ。悪魔以外の何物でもないものが、その封印を解いてしまわぬように」


 はたと、ヒュウガが顔を上げた。それを見計らったように、大天使はにっと笑い、懐に差さった剣を引き抜いた。武器用ではない細かい装飾が為された真っ黒の剣に、ヒュウガは目を見開いた。


「貴様、まさか……っ!」


 なにかを言いかけたヒュウガは、歯を食いしばった。頭を押さえ、切れ長の上目で大天使を見る。


「あぁ……待ち望んでいた……! この聖剣さえあれば、我らが主を蘇らせることができる! 奴は僕を封じようとこんなものを用意したようだけど、裏目に出たね。全く、悪魔はいつだって愚かなんだ!」


 剣を掲げて高らかに笑った大天使は、ふと、ヒュウガに目を戻した。剣の真っ黒な刀身を撫で、でも、と瞳を伏せる。


「僕では、この剣は使えない。いや、僕だけじゃない。もはやこの世界でこの剣を完全に使いこなせるものは、誰も残されてはいない。すぐ、刀身を曇らせてしまう」

「だから、俺を捕らえたというわけか……っ!」


 絞り出すような声で言いながら、ヒュウガは頭を叩いた。半身の糸が切れたマリオネットのような彼に、大天使はにこにこと目を細めて近づく。


「苦しいだろう? 君にした施しが切れかかっているからね。頭痛、吐き気、倦怠感……今すぐにでも楽になりたいはずだ。そうだろう?」


 ヒュウガは無言で首を振る。大天使は柔らかな笑みを湛え、ティーカップを彼の目の前に差し向けた。


「取引をしよう。君が剣さえ振るってくれれば、主は君をもとの世界に、それも君がこの世界に到着したその日に戻すと確約してくださった。身体状態も、その日のまま、いや、それ以上で、だ。悪い条件じゃないだろう? あの悪魔は君を労う親や、友のことを考えてなどいない。が、我らが主は違う。君が戻りたいと願うのなら、主はその通りにしてくれるだろう。どうだい? 君にとってなにひとつ悪いことなんてないしね」


 ヒュウガはティーカップをじっと見つめていた。喉を鳴らせ、食い入るようにじっと。大天使はふっと笑い、カップをヒュウガの目の前で躍らせた。立ち上る香気を孕んだ湯気が彼の鼻先で躍る。


「我慢しなくてもいいんだ。本能に任せて、動いてもいいんだ。我慢してはバカを見るだけだ。そうだ、あの時もだったんだろう?」


 ヒュウガの視線がティーカップから大天使に映った。眉を吊り上げたその姿は、驚愕しているように見える。大天使はカップを置くと、ヒュウガの袖口をまくり上げた。ヒュウガの顔がさっと青くなる。即座に隠したあざだらけの腕に、大天使は視線を落とす。


「かわいそうに……ずっと隠してきたんだろう? 見られないように。その観察眼は、奴らに見られていないか常に目を光らせていたからだったんだ。その記憶力は、教えてくれる人がいなかったからなんだ。そしてその血色の悪い肌は、ずっと家に閉じこもっていたからなんだろう?」

「やめろ……!」

「蹴られて、殴られて、盗られて、苛め抜かれた。そんな君には、味方なんて存在しなかったんだろう。だから、あの楽しい世界を作り出した。そして、この世界に夢を見たんだろう?」

「やめてよ……っ!」

「だけど、ここでも救いなんてなかった」

「もう、言わないでよ……っ!」


 ヒュウガは両腕を大切そうに抱え、涙声を上げた。すすり上げる洟の音。彼は泣いていたのだ。大天使は彼に寄り添うように撫で、そっと手を取った。


「リューク君も、君と同じだった。彼も君も、互いに共通性を見出したんだね。だから、共に寄り添いあった。仲間がいれば安心するもんね。だけど、苦しみは癒えない。君もリューク君も、ひたすら耐え続けたんだよね」


 ピクリと、ヒュウガの動きが止まった。大天使はカップを差し出して笑む。


「さぁ、もういいんだ。楽になっても、誰も君を叱りつけはしない」


 耳朶を噛むように、甘く、天使のように囁く。


「さぁ、どうぞ」

「……嫌だ」


 呟いた言葉は、はっきりとした拒絶の意思だった。涙の乾いた声だ。今度は、大天使の動きが止まった。


「そうか……そういうことか。こうやって、リュークの心に溶け込んでいったのだな。こうやって、教徒を増やしていったんだな!」


 大天使を押して、ヒュウガはベッドの外へと転がった。透明な新緑の液が宙を舞った。彼はふらふらした足を支え、指を突き立てる。


「残念だが、俺は貴様の洗脳にはかからぬ。あちらの世界で施された師匠の洗脳術に比べてはまだまだだな!

 いいか! 俺はそんな薬なんかには頼らない。自分の意志でこの苦しみから逃れてやる!こんな苦しみ、ヴィゲールの黒炎に耐えた俺にとってはたやすいことよ! 俺は、この薬によってこの身に宿るベスティアを超えてやる!」


 意気揚々たるその姿にか大天使はふぅっとため息をついた。そして腰のホルダーからナイフを取り出し、扉へふらつきながら向かうヒュウガに投げた。うっと小さな呻き声。頬からわずかに流れる血に触れ、ヒュウガはははっと笑った。そしてそのまま扉に辿りついたところで、ばたりと倒れた。

 ベルベットのコートに染みた紅茶をシーツで拭い、大天使は扉に刺さったナイフを引き抜いた。扉のそばに置かれたベルを鳴らすと、数分後、男が二人現れた。


「本部に鳩を飛ばしてくれ。本部からの返事が返ってきたら出発だ。その間も、ヒュウガ君に薬の投与は忘れないでくれ。一日二回。朝と夜だよ、分かった?」


 頷いて、男たちはヒュウガを抱えて奥へ消えた。

 大天使はナイフを麻痺作用のある液体を染みこませた毛皮が内に張られたホルダーにしまうと、彼らの後を追った。

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