六日目6
広場から、焦げたような独特の匂いと、甘いような酸っぱいような不思議な匂いが漂ってくる。
ことりと、硬いものを置いたような音が聞こえた。角からツリス広場を覗く。家々の隙間から零れる日光だけが照らすそこには、ひどくボロボロなレティーシアがいた。見慣れぬ傷を至る所につけ、地に伏せている。流れる赤は、今なおやられたことを示していた。
広場の真ん中にある井戸を、オルガンは覗いていた。レティーシアと同じく体はボロボロ。荒い息を吐きながら、眉間に深いしわを刻んでいる。井戸の縁にもたれかかり、その細く痩せこけた体を支えてなんとか立っているようだった。
そして、手には小瓶を持っている――。
認識するや否や、俺は飛び出して小石を投げた。綺麗に当たった小瓶は井戸に入ることなく地面に落ちる。オルガンは慌てた様子だ。今がチャンスとオルガンに飛びかかろうとした時だった。
パァンと、どこかで聞いた音が耳をついた。
同時に、腕が炸裂したような激痛が襲った。
一瞬見えたのは左腕から血が弾けるところだった。衝撃に倒れかけたが、なんとか踏ん張って奴を睨む。迸る血に下唇を噛みしめ、悲鳴を漏らすのを防いだ。こんな痛みに悲鳴を上げているような自分が情けなく思えるからだ。
この目にも止まらない攻撃。空気が破裂したような乾いた音。間違いない。ヒュウガが言っていたすないぱーらいふるよりは威力は弱いが、確実にそれと同系統の武器である。
オルガンは鉄の細工のようなものを右手で握り、井戸の前に立った。鉄細工の先が向かっているのは、俺の頭だ。
「流石ですね。致死量の毒を打っても死なないのですから」
そう言って笑う彼の姿は、いつもの弱々しく意思を持たない八方美人のオルガンではなかった。自分の行いに確固たる意志と責任を持っている。なによりも、その一瞬で人を殺めることもできるであろう武器を握るその手が証明していた。寸分の迷いもなく俺を打ち抜いたその様が、それを証明していた。
「……おい、レティーシアをどうしたんだよ……っ!」
彼はレティーシアに目をやることもなく、軽くため息をついた。
「近距離戦は苦手なんですよ……だから、こんなに怪我して……」
はぁはぁと息を吐きながら、彼は額から垂れる血を拭った。顔には青あざができており、左手の指は変な形に歪曲している。
まさか、その変な武器でレティーシアを……。寒気がした。それがひどく血を流しすぎたためか、血だらけのレティーシアを確認したためかはわからない。……レティーシアの生死も、俺にはわからない。
「全部、お前だったんだろ……この街の奴らに薬物を盛ったのも、火炎瓶を投げたのも、ギルドラートにヒュウガのことを漏らしたのも! ディエさんの記憶を消したのも、お前だったんだな!」
「はい。流石、リューク殿でございますね」
にっこりと笑ったその顔には一切の悪意が見られず、俺は震えた。全身の毛が逆立つ。脈は目視できるほど激しく動いていた。
こいつは、あのオルガンじゃない。
オルガンは鉄細工の先を俺に向けたまま、井戸の縁を登った。
「なんで、そんなこと……」
震えた声が紡ぎだせたのは、その一言だけだった。
オルガンは演説でもするかのように片手を広げた。
「リューク殿、あなたとてお思いになっているでしょう! この街の人間はなんと愚かなのだろう、そしてなんと穢れているのだろうと! 人は自分より下の者を見つけなければ生きていけない。そんな世界はおかしいのです! だから、また作り直さねばならないと!」
オルガンは恍惚とした表情を浮かべ、家々の隙間から覗かせる太陽を仰いだ。喉を反らせて、甲高い哄笑を広場一帯に響き渡らせる。まるで狂ったマリオネットのように、危なっかしく井戸の縁を移動していた。
――今ならやれるかもしれない。
俺が走りだそうとした時だった。
急にこちらを向いたオルガンは、鉄細工を向けた。思わず目を閉じ、歯を食いしばった。閉じる間際、俺が見たのは、ニヤリと口の端を上げたオルガンが鉄細工のレバーのようなものに指をかける姿。
――カチリ、と。
金属かなにかがこすれ合ったような音。
小馬鹿にしたような笑い声が暗闇に響いて、俺は目を開いた。
「あぁ、我らが主よ! 新たなる楽園のために!」
そこから先は、一瞬だった。自分の肩を抱いたオルガンは、けらけらと笑いながら、その顔全体に幸せを湛えながら、井戸の中に消えたのだ。
水面になにかを叩きつけたような音がする。
オルガンが消えても、彼の哄笑だけはその場に残留していた。
「なにが、起きてるんだ……?」
力が抜け、俺はすとんとしりもちをついた。
何故、オルガンは井戸から落ちた?
まだ薬物を持っていたのか。いや、それならあんなに慌てはしないはずだ。それすらも演技であれば……。
「リュークさ――レティーシア様!?」
背後からの声に振り向くと、そこにいたのはディエさんとシエラだった。ディエさんの声に、俺ははたと思い出す。そうだ、レティーシアの容態はどうなのか。
立ち上がり、レティーシアへ駆け寄る。彼女や井戸の周りには、金色の長い円錐形の筒みたいなものやその破片と思われるものが転がっていた。その手には、彼女愛用の槌が握られている。ディエさんは彼女の首を起こした。黒緑の髪が流れてあらわになる白い首元には、小さな穴のようなものがあった。彼は首に手を当て、彼女の脈をとる。
「まだ脈があります。すぐ治療しましょう」
「そうしてください」
「リューク……これ、どうなってるの……?」
入り口では、車椅子のシエラが信じられないといった表情で立ちすくんでいた。
「なによ、その傷……どうしたっていうのよ……っ!」
ディエさんの腕に抱かれるレティーシアの体には、まるで虫にでも食われたような傷が三か所ほどあった。それは俺の左腕に作られた傷跡と似ている。おおよそ、オルガンとやり合ったときにできたのだろう。状況とオルガンの証言を鑑みるに、初めはレティーシアが優位だったが、のちに形勢逆転。あの鉄細工で金属のボルトを何弾か撃ち込まれたあと、薬物を注入されたのだろう。かろうじて意識があるのは、神の奇跡なのだろうか。
「一人で突っ込みやがって……っ!」
思い立って突っ込んだんだろう。せめてなにか一言言ってくれればよかったのに。これでヒュウガもお前も消えたら、革命どころじゃねぇじゃんかよ……!
シエラは怯えと恐れに顔を真っ青にしながら、車椅子でゆっくりとレティーシアの下へやってくる。そうしてディエさんの腕の中のレティーシアを見ると、彼女は手を組んで祈りを捧げた。俺も、自然とそれに倣っていた。祈ることに意味はないとわかっていたけど、なぜかそうしていた。
顔面蒼白の二人を置いて、俺はナイフを拾い上げ、傍に転がった瓶を踏み割った。覗き込んだ井戸の水面には、波ひとつ立っていない。闇の向こうで誰かと目があったような気がした。
――これで、もう大丈夫だ。
薬物が街全体に回ることなく済んだのだ。これで革命と聖剣、ヒュウガの奪還に専念できる。……うまく、奴らを説得できたら、の話だが。
なぜオルガンが飛び降りたのかは、未だ謎である。
ナイフをホルダーに差し、振り向くと、レティーシアを抱えて立ち上がろうとしているディエさんの姿があった。枯れ枝のような足でレティーシアを支えるディエさんの姿は痛ましく、俺は彼らの下に駆け寄る。
「俺が背負い――」
ますよ。最後まで言えなかったのは、ある事実に気づいたからだ。
俺はディエさんに、恐る恐る尋ねる。
「……薬物の効果って、その人の体や血に残り続けるんですか?」
彼は少し考えこむように虚空を見た後、手早く答えた。
「毒に侵された魚を食べると人も毒の効果を受けるので、残るのではないでしょうか」
言い残して、ディエさんはレティーシアを横抱きに、路地に消えてしまった。点々と、血の跡が続き、広がっていく。彼の一言は、俺の心にこの血のように黒いシミを落としていった。
「……リューク?」
隣にやってきたシエラの声が遠くで聞こえた気がした。
そうか、そういうことだったのだ。
「クソ、オルガンが……っ!」
「リューク!?」
俺は駆けだした。向かう先は中央広場。民が多く集まる場所である。
オルガンにとって水源を汚染する策はひとつではなかったのだ。さらに、それは数日前から用意周到に組み込まれていた最終手段だったのだ。
彼はこれまでは肉づきがよく、他国に行っても怪しまれない体型だった。だが、どうだっただろう。ここ最近で急激にやせ細り、やつれてしまっている。目も充血し、まるで別人のようだった。その姿は、この街の者とまるきり一緒である。つまり、彼の体には薬物でいっぱいだということだ。
井戸にとび込む前の彼の笑みの意味が分かった。小瓶に入った薬物が無くなっても、自分自身が薬物同様なのだ。この身を投げ打てば、この街を終わらせることができる。それほどまでの強い使命感とヴェルジュリアへの信仰心が、オルガンにはあったのか……。
残された時間はわずかだ。それまでに、彼らを説得しなければ……皆、死んでしまう。
正直、この街がどうなろうと、俺には「ざまぁない」で終わることだった。特にダニエラなんかが死んだら、俺はきっと陰で笑いを堪えるのに必死になっていたと思う。それだけ俺を貶し続けていたから、それも然るべき処罰だと考えていただろう。
だけどその復讐心が、誰かに利用されたり、筋書き通りのモノだったなんて結末には、反吐が出るんだ。
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