六日目

 不穏な暗雲が広がっている。それでも朝の明るさを前には、化け物となり果ててしまった民も外をうろつくことはできなかったようだ。あれから一睡もできなかった俺は、眠りにつくヒュウガをそのままに、朝の空気を腹いっぱいに吸い込んだ。

 重たい。なんだか、肺に詰まるようだ。

 顔を洗っていると、誰かの手が俺の肩を叩いた。剣を構え、勢いよく振り向く。


「……なんだ、お前か」


 そこにいたのは、レティーシアだった。彼女はむっとしたように眉を顰めている。


「なんだってなんだよ。せっかく気利かせて朝飯持ってきてやったのによ」


 見ると、その手には籠が握られていた。その籠には見覚えがある。確か、先日シエラに持って行った籠だ。


「なんで、お前がこれを……」

「お使いだよ、シエラちゃんの。それと、あれから分かったことの報告」

「しえ……お嬢様は、なんと?」

「私が行っても逆に空気が悪くなるだけだってさ」


 そんなことない。そう言いたい相手は、今は目の前にはいない。仮にいたとしても、それを口にできるほどの責任感なんてなかった。きっと、彼女の顔すらろくに見ることができない。不快感を与えるくらいなら、これが適作なのかもしれない。

 突っ立っていると、レティーシアに背を叩かれた。


「なにしょげた顔してるんだ。シエラちゃんだって、もう何も思っていないさ。

 さ、とりあえず家に入れてくれ。立ち話もなんだろ? それに、アタシは乙女サンに会いたいんだ。早く、な?」

「……あぁ、そうだな」


 なにも思ってはいない。

 決して、そんなはずはないのだ。

 扉を開こうとすると、逆に扉が開かれた。そこから出てきたのはヒュウガだ。レティーシア彼を見るなり目を輝かせた。


「君が乙女サンか! アタシはレティーシアだよろしく、そして君の名前を教えてもらってもいいかな?」


 やにハイテンションなレティーシアに、ヒュウガは肩をびくりとさせた。その勢いに思考停止したか、細い目でしっかり十秒彼女を見つめたのち、


「……ヒュウガだ」


 寝起きのかすれた低い声で答えた。逃げるようにそそくさと立ち去ってしまう。


「うん……素晴らしい。あの姿形にあの名前。ここじゃ見たことも聞いたこともない。流石異なる世界の住人だ」


 感動したように何度も頷くレティーシア。ヒュウガのあの様子……相当ビビっていたな。それも仕方ない。全く、シエラといいレティーシアといい、芸術家っていうものはよくわからない。

 ヒュウガが戻ってきたのは、それから数分後のことだった。まだうっすら眠気を残した顔には包帯がない。濡れて束になった髪から覗く傷は、薄皮が張っているように見えた。流石、オルガンの薬だ。きっと、ローガンの傷も治っていることだろう。


「ローガンの容態はどうなんだ?」

「傷はどうにかなるらしいよ。だけど、ちょっと無口になったな。今日なんかずっと家に閉じこもりっきりだ。思い詰めているんだろうよ」


 ……流石に、心までは癒えなかったようだ。無理もないだろう。

 ヒュウガは居心地悪そうに俺の近くに腰かけている。レティーシアはヒュウガの全身を舐めるように見つめている。縮こまったヒュウガがかわいそうなので、俺は話を切り出した。


「で、報告ってなんなんだ?」

「そうだった。ローガンとアルベルトから重要な証言が手に入ってな。その前に……ヒュウガ君、紫煙は大丈夫か?」


 彼女がちらつかせたのは葉巻だ。ヒュウガは頷いたが、少し曖昧な感じだ。


「吸ってもいいが、窓辺でやってくれ。煙たいのは俺が勘弁だ」


 それに、ヒュウガは葉巻の煙が苦手なようである。たしかに、俺もあの煙たさには慣れない。

 レティーシアは窓枠に腰かけ、イブリア火花で葉巻に火をつけた。くゆる煙に鼻を近づけ目を細める。少し経ってから、彼女はこちらを向いた。


「本題に移ろうか。

 ローガンはお前たちがよく知る通り、恋人に襲われたそうだな。で、狂った奴らに襲われて、お前らを発見し、行動を共にした、と。合ってるか?」


 俺たちは頷く。


「その後、光に弱いってことを知って、炎を灯して広場に行ったんだ」


 レティーシアは驚いたように眉を上げた。


「へぇ、そこまで分かったんだ。流石は英雄サン、いや、乙女サンのおかげかな」


 茶化したような言い方に、ヒュウガは顔をひきつらせた。その反応を楽しむように、彼女は紫煙を吐き出して笑う。


「そう、狂った民は光に弱い。まるでセグレタのようにな。そう証言したのは、アルベルトだった。アルベルトはゼクス農家に樽を納品する途中で、夕暮時だったこともあり、火は灯さずに歩いたらしい。そしてゼクス農家の家についたら……ボン! いきなり目の前の畑が燃えたんだと。立ち上る炎と煙に、いきなり悲鳴の大合唱。そして小屋からあの……テオだっけ? 少年が悪魔だとかなんとか叫びながら炎にナイフを振り回していたそうだ。炎に突っ込む勢いの少年を助けて、広場に戻て来たんだって」


 軽く語ったレティーシアに、俺は息を呑んだ。ヒュウガと顔を見合わせる。

 いきなり燃えた畑。あちこちから聞こえてくる悲鳴。炎を恐れるテオ。悪魔と叫びながら、炎と戦っているという証言。


「奴の術は一点に留まっていないということか……!」


 呟いたヒュウガに、レティーシアは頷いた。


「そういうことだ。広場で眠る火傷だらけの人を見たか? 救いを求めてここから広場にやってきたんだとよ。おかげでオルガンの診療所は大繁盛だろうな」


 冗談か本気かわからないレティーシアの言葉に、俺はほっと息を吐いた。

 あそこで眠っていた人々は、まだ生きているということか。半ば死んでいてもおかしくない様相だった。オルガンは名医なんだろう。

 紫煙が立ち上り消えていく。窓の外を遠い目で見やったレティーシアは吐き捨てるように零す。


「今日ここに来る途中いろいろ見てきたが、転がってるのは火傷だらけの死体か血まみれの死体か、あるいはその両方かだ。ひどいもんだよ。恐怖に慄きながら死んでったんだろうしな」


 想像もしたくない。見るとヒュウガの顔色は悪い。変に想像力が豊かだから、悪い方向に想像が膨らんでしまったのかもしれない。

 そこでだ、とレティーシアはこちらにまなざしを向けた。いままでのふざけた語り口調とは裏腹に、ことの深刻さの伺える真剣な瞳を。


「おかしくないか? なんで、ギルドラートの犠牲者はこの区内の人が多いんだ? 広場の人たちとの違いはなんだ?」


 ……確かに。

 広場で眠る奴らの顔は見覚えがあった。そう、この区画の奴らのものだったのだ。

 なぜ、この区画の民ばかりが、あぁなってしまったんだろうか。

 この区画の民とほかの区画の民。その違いは何なのか……。


「……食糧じゃないか?」


 呟いたのは、ヒュウガだった。

 レティーシアは口の端を上げる。


「ご名答。この区画の民は、言い方は悪いが、基本貧乏人が多い。農業を生業にしているからだろうな。増税のせいで売る分はおろか食べる分もろくに残らない。お買い求めしやすいようにとパンは安くなっているらしいが、金が要るんだろ?」

「まぁ、銅貨一枚で二個買えるってとこだ」

「だいぶ安いじゃないか。だが、それでも買えない人々がいることも確かだ。ということで、モノを食わない奴らがあぁなってしまったって広場の人々は考えたってわけさ。

 で、親切心。ほら、パン持ってきてやったんだ。食えよ」

「つまりは、あのパンが解毒作用のようなものを持っているということなのだな」


 頷いたヒュウガは、籠に手を伸ばした。

 そういうことだったのか。パンを食べられなかったから、人々は狂ってしまった。

 ――いや、そういうことなのか?

 俺はヒュウガの手を止める。なんだ、と彼は不服めいた視線を送る。


「じゃあ、なんでレティーシアは狂ってないんだ?」

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