SIDE OF  

 書斎に腰かけた大天使は、顎に手を当てふぅんと息を吐いた。その机の上には、ジュシンキと呼ばれる小さな箱のようなものがあった。これも、文明人から賜った技術のひとつだ。

 そのつまみをいじり、大天使は口元を曲げた。愉快そうに、けれどもその目には焦燥感が垣間見える。


「さっすが文明人、これに気づかれるのも時間の問題かもしれないね」

「その可能性は大いにあり得ます。現に彼はスナイパーライフルの存在に気づいています。なんとか気づかれる前に対処しなければなりません」


 確かに、と大天使はイヤホンを外した。腕を組み、うつむいて唸る。

 このままでは、いずれ全て知られてしまうだろう。この辺鄙な街にわざわざ来たワケと、ヴェルジュリアの秘術の存在に。いや、あるいはかの悪魔はもうすでに我らが崇高な目的に気づいていて……。


「そろそろ、いい頃合いかもしれないね」

「報告申し上げると、かの民には方舟に乗る資格はありません。我らが主の世界に生きる資格もありません」


 差別。忌避。暴力。

 かの民が主の世界に不必要なモノであると証明したのは、主の植物だった。その種は人に神の息吹を感じる力を授けるという。その一部を民に与えてきたが、残念ながらかの民は主に選ばれなかったようだ。狂ってしまった彼らは、もう主の恩恵を受けることはない。地下世界で腐れ死んでいくことだろう。

 だが、あの街ではかの英雄だけは違う。主に選ばれ、主の血が流れるかの英雄だけは、狂うことはない。主の恩恵を受け、地上世界で幸福に暮らすことができるのだ。

 大天使は口の端を上げ、妖しく笑んだ。


「そうか……なら、もうこの街には用はないね」


 その、おぞけが立つほど美しく狂気じみた笑みよ。

 男は大天使に応えるように、大きく頷いた。


「では、直ちに聖剣、黒衣の少年の回収に移ります」


 大天使は満足げに頷くと、机の上の小瓶を手に取った。邪悪を浄化する、聖なる御薬の入ったガラスの小瓶だ。それを男の手に握らせ、


「新たなる主の世界を築くため」

「世界の不浄は、清めなくてはならない、ですね」


 男は小瓶を抱きしめ、まっすぐ大天使を見つめた。恐れひとつない、ただ主のためなら命を投げ打っても構わない。そう言うかのような瞳に、大天使は扉を示した。


「さぁ、主がお待ちだ」

「かしこまりました」


 ケルズの文様を示し、男は退出した。その背を見送り、大天使は懐からジュウを取り出す。金色の弾丸を詰めながら、大天使はジュシンキから聞こえてきた声を反芻した。

 ――なに、死にに行くわけではない。

 ジュシンキの先で、忌々しいアーシュヴェルンは確かにそう言った。

 行く? こちらへ? 愚かしい。大天使は嗤う。おこがましいにもほどがある。その力なき身になにができようというのだ。大天使は嗤う。嗤いながら、目の前に突如として現れた堕ちたるかつての同胞を打ち抜いた。

 部屋に響く破裂音。ぐしゃりとガラスを砕いたような音。


「まさか、丸腰で来るわけがないだろう」

「……丸腰であることには変わりない、アーシュヴェルン」


 その澄ました顔が癪に障ったので、大天使はアーシュヴェルンの眉間に向けて引き金を引いた。無論、アーシュヴェルンの体が崩れることはない。その先の花瓶が音を立てて砕け散っただけである。涼しげな奴の顔が、ゆらりと揺らいだ。


「歓迎の挨拶にしては、えらく過激であるが」

「これが僕流さ。地味なのは嫌いなんだ」

「昔からそうであったな。馬鹿な部下が集まるのも、変わっていない」


 さっと、大天使の顔色が変わった。アーシュヴェルンは口の端を上げ、芝居がかった口調で続けた。


「いや、昔よりも部下の質が落ちたか? あぁ、そうだ。少なくとも私の侵入に気づかぬほどではなかったわ」

「忌々しい、主に背いた堕ちたる悪魔め……!」


 憎々しげにアーシュヴェルンを睨んだ大天使の口元に人差し指を立て、彼は挑発めいた笑みを浮かべる。


「そうではない。この世界では、もう貴様たちは天使ではない。かつての栄光に縋るのはよせ。フローベル、貴様たちは、悪魔なのだから」


 その人差し指を振り払う。が、実態を持たぬ偽りのアーシュヴェルンは、ただ揺れ動くだけであった。苛立ちからか、大天使は髪をかき混ぜた。


「……何の用だ」

「この世界の決まりは知っているだろう。この世界のものに私は干渉できない。それに私にはもう力は残されていないのだ。今更貴様を打ち倒そうなどとは、思ってなどいない。それこそ、驕り以外の何物でもなかろう?」

「結局のところはなにが言いたいんだ」

「簡単なことだ。ただ、等しい状態にしたい、ただそれだけなのだ」


 大天使はがたりと立ち上がった。アーシュヴェルンの幻影を振り払い、扉の外へと向かう。等しい状態、あぁ、それは――。


「今更手遅れよ。もう遅いが、せいぜいあがくといい」


 大天使は引き金を何回も引いた。だが、その弾がアーシュヴェルンに当たる前に、彼の悪魔は姿を消していた。


「忌々しい……っ!」


 拳を壁に叩きつけ、大天使は吐き出した。

 ない、ない。なにもない。本部から送られてきた異世界の文明が、すべて消えている。破壊されたなどと言うわけではない。跡形もなく、抹消されている。

 残ったのは手の中のジュウ、ジュシンキに、ツウシンキなど。大天使の部屋にあるものだけである。

 大天使は椅子につき、親指の爪を噛んだ。


「忌々しい、堕ちたる悪魔が……!」


 足を組んで、そう吐き捨てながら、大天使は笑みを浮かべた。


「……やっぱり、悪魔は愚かなんだね」


 ――奴は過ちを犯した。

 それは、あちらの世界のものに注意しすぎたということである。

 大天使はツウシンキの電源を入れた。

 ――真に恐れるべきは、異世界の文明ではないのだ。

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