六日目2

 レティーシアはふぅと紫煙を吐いた。その顔中に驚愕を湛えている。


「我が耳を疑うぞ、リューク。よくその疑問に辿り着いたな」

「うるせぇ」

「どういうことだ?」


 ひとりなにがなんだかわからないといった様子のヒュウガに、俺は教えてやった。


「レティーシアは変人だから、パンは絶対食わねぇんだ」

「それにはいろいろ語弊が生まれるんじゃないか?」

「間違ってねぇだろうが」


 レティーシアはパンは絶対に食べないという。なにを食べて生きているのか甚だ疑問だが、今は触れないでいいだろう。


「パンが解毒作用になってるっていうんなら、レティーシアは狂ってもおかしくないはずだ。なのに、コイツはピンピンしてる。軽口を叩けるほどにはな。それじゃ、パンと術は無関係じゃないか」

「いや、無関係というわけではないんだ。

 考えてみろ、ほかに差があるか? 水は誰でも飲めるし、しかもすべての井戸水はツリス広場の井戸水と共有だ。そこに術を解くなにかがあるとしたら、誰も狂わないはずだ。だから、なにがしかの関係があるんだ。それは、ギルドラートの不可思議な術のトリックでもある」

「えぇ!?」


 流れるように簡単に言った一言に、俺は目を丸くした。


「なんだお前、ギルドラートの術の正体が分かったのか!?」

「まぁ、私というか、ディエさんが、ってとこかな。

 思い出してみろ、セグレタと狂った人々をな」


 回りくどい奴だ。すぐに教えてくれればいいのに。

 そう思っていると、横からぶつぶつ言っているのが聞こえてきた。ヒュウガが念仏を唱えているようである。


「視覚、聴覚異常。錯乱状態。瞳孔の拡大に、充血……」


 聞こえてきたのは、そんな言葉の乱立だった。

 よく聞くと覚えがある。ギルドラートの術にかかった者の症状だ。皆その見開かれた目を血走らせ、異常な聴覚と視覚を捉え襲い掛かっていた。手あたり次第、狂ったように。悪魔と吠える様は、錯乱していたとしてもおかしくない。

 なにを言っているのだろう。そう思ってヒュウガを見ていると、彼はがばっと顔を上げた。


「そうか、薬物依存か……!」


 薬物? 首をかしいだ俺とは対照的に、レティーシアはにやりと口の端を上げた。


「そっちの世界では薬物って呼ばれているんだな。あんなもん、薬より毒に近いだろ」

「あっちでは本来薬として使われるものなのだ。しかし、なぜ気づかなかったのか……ヒントならいくらでも落ちていただろうに……」

「ど、どういうことなんだよ」


 レティーシアには伝わっているようだが、俺にはさっぱりだ。わかりやすく説明してくれないと。俺だけがわからないまま話が進んでいくのは勘弁なんだ。

 ヒュウガは自らを落ち着かせるようにほうっと息を吐き、説明を始めた。


「薬物というものは、それを吸う、食べる、打ち込むことによって、快楽を得ることができるものだ。その時、主に人は意識が覚醒し五感が過敏になり、理性のタガが放たれる。興奮状態に陥ることで通常より何倍もの力を発揮したり、錯乱状態を起こしたりするのだ」

「まさにセグレタに民の姿じゃないか……」

「恐ろしいのは、薬の効果が切れた後だ。薬が切れると人はどうしようもない不安、幻覚、幻聴、脱力感などを感じるようになる。それは薬を再び摂取すれば治まることだが、そのたびに肉体の方は痩せやつれていくのだ。そう、この街の民のようにな」


 俺は民の姿を思い出した。確かに皆、頬骨が出ていたり、やつれていたり、まるで生気を感じないような青い顔をしている奴もいた。

 よくはわからないが、それが薬物の影響だというのか。


「極めつけが、広場に戻ったときのシエラの言葉だ。

 テオ少年はパンと水を口にして、おとなしくなった。

 水は共有だと……レティーシアさんが言っていた。これでわかるだろう? 人々を狂わせたギルドラートの術の元凶薬物が、あのパンには混ぜられているということだ」


 ヒュウガのその恐れを抱いた瞳に、俺は震えた。

 あのなんの味もない、ただ腹を満たすためだと思っていたパン。それが恐ろしい毒物だっただなんて。

 この籠に盛られた丸いものは、すべて毒物なのだ。

 恐怖が全身を貫いた。息もまともにできず、ただ術の媒体となったパンを見つめる。

 その耳に入ったのは、ぱちぱちと手を叩く音だった。


「よく分かったな、ヒュウガ君。そうなんだ。目の前のそれは、君たちも食べていた毒物なんだ。どうやらまだ、禁断症状が出るほどまでにはなっていないようだけどね」


 そう言って、レティーシアは籠を蹴飛ばし、転がったパンを踏みつけた。窓枠に腰かけ、恐怖に慄く俺たちに葉巻を差し向ける。


「トリックは、つまりこうだ。

 この街の人々は、そちらの世界の言葉を借りると、薬物か。それを常用していたが、増税や先日のパン失踪事件により服用できなくなっていった。禁断症状が出たこの区内の人々は炎などの光に幻覚を見るようになったんだ。その耐えがたい恐怖を、彼らは悪魔になぞらえた。炎も、火だるまになった同胞も、皆悪魔にしか見えなかったんだ。だから、悪魔といいながら同胞討ちをするあの光景が出来上がったというわけだ」

「……つまり?」

「そうだった。リュークには難しいことはわからなかったんだ。つまり、パンはヤベェって話さ。一度ハマっちまったら、食べ続けても食べなくても破滅する。アタシとヒュウガ君はセーフラインにいるんだよ」

「じゃあ……俺は?」


 俺は民同様、パンは食べ続けている。だが、やつれたり禁断症状が出ていないのは、なぜ?

 それにはレティーシアも肩をすくめた。


「お前は人じゃないんじゃない?」


 なんだよ、それは。

 ムッとしてレティーシアを睨む。彼女は意に関せず、といったようで、窓の外に目をやった。そして、なにかを目撃したか、顔をしかめた。

 どうしたんだ。そう問う前に、扉が叩かれた。扉を開いて、俺は心底驚いた。


「ディエさんと……オルガン?」


 大きな本とノートを抱えた二人。それは、ディエさんとオルガンだった。ディエさんはわかるが、オルガンとは……珍しい客だ。

 ディエさんはその細い足が折れるのではないかと心配になるほど大きな本を抱え、彼には珍しく、挨拶もなく入ってくる。抱えた本を床に広げ、レティーシアに示した。


「見つけました……これです。この花の種ですね」


 どうやら植物図鑑のようだ。といっても普通の図鑑ではなく、ディエさんかオルガンの私物であるらしく、植物の効能や保存法などが事細かに記されている。その中でもディエさんが示したのは、俺もよく知る花だった。


「時告げの花……」


 レティーシアは苦虫を噛み潰したような顔で葉巻を噛んだ。

 そこに描かれていた花は、時計代わりの花、時告げの花だった。そこに記された正式名称は――。


「ケルズだって……!?」


 我が目を疑った。青紫の薄い花弁をつける時告げの花が、この図鑑では確かにケルズの花を示しているのだ。刑場で花開くという、赤黒い花。それはヴェルジュリアの象徴である。

 ヒュウガは身を乗り出し、そして震えた指をその絵に向けた。


「この種って、たしかパンに入ってたよな……?」


 ……本当だ。俺はディエさんを見る。

 ディエさんは頷くと、時告げの花から伸びる矢印の先、次の頁を開いた。そこにはケルズの花の特徴が事細かに記されている。それは確かに時告げの花に似ているような気がした。


「ケルズの花の種は多幸感をもたらします。ですが、その代わりに依存性が強く、さらに身体異常を起こしたりもするのです。

 どうやら時告げの花は、栄養素の影響で、その花びらの色形を変異させることがあるそうです。変異したものがこのケルズですが、もとは同じもの。その効能もまた同じです。

 つまり、私たちはこの種を日常食べ、狂ってきたということです」


 嘘だろ……! その言葉は声にならず、ただ息として吐き出されただけだった。

 これで証明されてしまった。俺たちはパンという形でこの種を食い、だんだん狂っていたのだ。誰にもそれが毒物であると、気づかれることなく。その事実は一瞬で脳内を駆け巡り、不安と恐怖だけを残していった。


「……でも、それは治せるんだろ?」


 かろうじて声に出すことができたのは、その数分後だった。部屋全体に立ち込めた重たい雰囲気を断ち切ることができればと、切に願って。

 その願いが通じたか、はいと今度はオルガンが図鑑を開いた。


「それが神の花、ソリアなんです。その光があれば、精神異常、身体異常のすべての回復が見込めるそうなんです」


 彼の手のノートの開かれた頁には、ソリアの精緻な描写が為されていた。そこにはソリアの光の効能や、神さんを治したあの奇跡までが描かれている。「伝承によるイメージ」と注意書きが為されている点から信憑性が低いことは否めないが、なにより神さんを治したという功績がある。コイツに賭けるしかないようだ。


「じゃあ、コイツを取ってくりゃいいんだな」

「待て、リューク」


 立ち上がった俺を止めたのはヒュウガだった。そのまま耳元に口を近づけ、囁くように言う。


「俺の世界では、薬物依存を治療する特効薬などないとされている。本当にそんな花なんかで回復するとは思えんのだ」


 言いにくそうに小声で、周りの目を気にするように彼は言った。


「だけど、もうそれに賭けるしかないんだよ。わかるだろ、ヒュウガ。この革命にはこの街の未来と、お前が家に帰れるかどうかもかかってるんだぜ?

 ……俺だって、そこまで神の花をあてにはしてないさ。でも、ほかにどうしろってんだよ……!」


 たとえ彼が言うように特効薬がないとしても、偽りだとしても代わりのものがあれば、民の士気は上がるはずだ。……そう信じて抗うほかに、俺たちが救われる道はないんだから。

 あぁ、とヒュウガが神妙な顔で頷いたとき、彼ははたと目を見開いた。驚愕と恐れがそうさせているようである。どうした、と彼に問う前に、立ち上がったディエさんが手を叩いた。


「では、ソリアを回収してくるグループ、人々にこのことを説明するグループとに分かれましょうか。私とレティーシア様とヒュウガ様が説明するグループ、残りお二方が回収をするというグループで……」

「いえ、やはり今乙女様が行っても、人々の反感を買うばかりでしょう。それよりは英雄として、リューク殿が行くべきではないでしょうか?」

「いえ、ダメです」


 オルガンに反対したのは、彼らが来てから変に静かだったレティーシアだった。人々にしか見せないおとなしく丁寧な、しかし強い口調で告げる。


「英雄様はソリア回収に向かうべきでしょう。悪魔だとさんざん言われた後に出て行っては、かえって反感が募るだけです。そして乙女様は英雄様と同行の方がお二人にとっても楽でしょう。薬剤師のオルガンさんは、私たちとしても、こちらに来て説明していただいたほうが、人々にも伝わりやすいと思うのですが」

「いえ、ソリアの扱いには十分な注意を必要としますから。それに、リューク殿には英雄としての責任もありますし」

「なら、ディエさんが行ってはどうでしょうか? 専門家からの説明の方が、人々も安心できるはずです」

「言い方が悪いかもしれませんが、専門知識のない方が行って、ただ一つの特効薬をダメにする可能性もあるんですよ?」


 なんだか、二人とも必死だ。どちらも引くわけにはいかないって感じ。たしかに俺はソリアを取りにいくべきだろうし、ヒュウガは俺といたほうが楽だろう。ソリアだって、あくまでハーブに詳しいディエさんじゃなく、その道のオルガンの方がいいだろう。

 にらみ合う二人。潔く折れたのは、レティーシアだった。


「……わかりました。ですが、英雄様はこちらに来させないでください。私たちまで悪魔だと思われるのは嫌ですから」


 その言い方にはムッとしたが、それは彼女の演技なのだと悟る。確かにその通りだ。俺を連れて説明をするのと、俺なしで説明するのでは、民に与える影響はずいぶん変わる。俺がいることで、狂言を吐く者とみなされ、相手にされないかもしれない。

 オルガンは数秒の沈黙ののち、そうですねと頷いた。


「では、早く行きましょう。ディエ殿、レティーシア殿、極力水を飲んで過ごすよう、お願いしますね」


 ノートを手に、オルガンは頭を下げて扉の向こうに消えた。なにかに誘われるかのように後に続く、虚ろなヒュウガを追おうとする俺を止めたのもまた、レティーシアだった。


「ヒュウガを一人にするんじゃないぞ」


 先を案ずるような低く籠った声に振り返ったときには、もうレティーシアはあのしとやかな彼女に変わってしまっていた。気づいていないフリをしろ、ということだろうか。


「リューク殿!」


 扉の向こう側から、急いだ声が聞こえてきた。

 飛び出して、三人で森へ向かう。なにかを思案するように俯くヒュウガの姿を見て思う。

 一体、なぜヒュウガを一人にしてはならないのだろうか。

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