五日目5
森に一歩踏み入れると、そこには一切の音がなかった。あの奇声も悲鳴も、動物の鳴き声や風の音すら聞こえてこない。
「まるですべての生命が息絶えたようだ……そう、動脈の流れを感じない」
そう呟いたヒュウガの横顔を、残り火のように儚いシオンの光が照らした。あの吐き気を催すほどの花々の匂いはどこへ消えたのだろうか。
神さんのもとへ急がなければ。
ぼうぼうに伸びた草が行く手を阻むように方々から迫る。飛び出した木の根がひたすら邪魔をした。
「なぁ、アイツになにかあったのか? その……神に」
「わからない。でも、なにかあったのかもしれない」
「なんだ、勘か?」
「神さんは世界の母胎だ。母胎の異常は胎児の異常。人以外は、神さんの異常と同調するんだ」
「人間は同調しないのだな……」
「人は悪魔の被造物だからな」
真っ赤な傷跡のような太陽が雲の隙間からあらわになる。生温かい風が草木を開いた。その先に見えるのは、ぎらぎらと照り輝く神殿だ。
見上げた俺たちのランプが、風もなくふっと消えた。水の流れる音が絶え絶えになった。
もしかすると、神さんは……。
俺はヒュウガを放り駆けだした。枯れかけたルーザとソリアの花畑を抜け、流れぬ滝の階段を通り過ぎる。列柱の廊下の炎は弱々しく、俺が走るだけで消えてしまった。
「神さん!」
祈りの間に飛び込むと、そこには教壇にもたれるようにして座る神さんの姿があった。微かに輝いているように思えたが、暗くてよくは見えない。荒い息遣いだけが耳に届いた。
「神さん……?」
近づいて神さんの様子をうかがう。
刹那、赤の輝きがステンドグラスから差し込んできた。照らし出された神さんの姿に、俺は思わず息を呑んだ。
その美貌を苦しげに歪ませ、存在しない右肩を押さえた神さん。その髪は青ざめ、どこか蝋人形めいた頬に張りついている。その手の隙間から、光の砂がさらさらと零れ落ちていた。その光を、神話で聞いたことがあった。神の身を構築する光、人間でいう、血と同じものであると。
「神さん! おい、神さんしっかりしろよ! おいっ!」
とりあえず手を退けさせる。右肩辺りに巨大な獣に一息で食いちぎられたような、見たこともない傷があった。右肩、右手がない。かわりに大穴だけがある。流れ落ちる光が毒々しく見えたのは、この不吉な月明かりだけのせいではないだろう。
「これは……銃創か……?」
追いついたのだろう。ヒュウガが顔をしかめながら、絶え絶えに言った。恐る恐る手を伸ばしたヒュウガを、神さんの手が跳ねのける。
「ふれるな……!」
青ざめた唇から絞り出された声はかすれていて、あの尊大だが威厳に満ちた彼の声ではないように思えた。これは、相当ヤバイに違いない。
そうは思うが、体が追い付かない。こんな傷をどう治せというのだろう。なによりも、驚愕と恐怖が勝っていた。
しかし、ヒュウガは落ち着いた様子で、手を跳ねのけられたのにも関わらず、傷口に触れた。うっと、神さんから低い声が漏れる。そして彼はしばし記憶を手繰りよせるように目を閉じると、俺の方を向いた。
「リューク、枯れていてもいいからあの水色の花を取ってきてくれ」
突然の質問に、俺は呆然として固まってしまった。
「水色の花……?」
「水色の花だ! 早く!」
ものすごい剣幕で怒鳴られて、俺はその花がソリアであることを理解した。だが、ソリアの花がなんの役に立つというのだろう。ちらりと神さんを見ると、懇願するような瞳を向けている。ソリアの使い方なんて見当もつかないが、ヒュウガを信じるしかないだろう。
飛び出して、枯れかけのソリアの中から、一番マシなものを三つほど摘み取って戻る。ヒュウガはそれを受け取ると、花弁をひとひらちぎった。そして彼はなにを思ったか、その氷の刃のような花弁を、いきなり神さんの傷に差し込んだ。
「お、おい! ヒュウガ、なにやって――」
その瞬間、信じられないことが起こった。
神さんの傷口に突き刺さったソリアが淡い青の光を放った途端、ソリアは細い紐状となったのだ。意思を持ったようにくねくねと動き、その傷を縫い合わせるように動いたのだ。周りの光の砂は、その光に導かれるようにソリアに集う。光の砂を閉じ込めるようにして、ソリアは神さんの傷をつづっていった。
全ての花弁が縒りあい、太い糸状になった。毛糸で編むように、ソリアはなにかを形作る。神さんとつながったそれは、真新しい腕であった。
そのあまりの神秘さに、俺は言葉も出なかった。ただ茫然と、あっけにとられて光の動きを見つめていた。
ソリアは神の花である。その花はなんの香りもないため安らぎを与えることはない。人にとってただのつまらない花であるが、神にとっては唯一この地にある癒しである。
その話は、嫌というほどシエラから聞いていた。だが、実際見てみて、これほどまでにその癒しが美しいとは……。
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