五日目2
「――よし、誰もいない」
小屋の中を覗き、俺は入れとジェスチャーする。二人が入ったこと確認し、そっと閂を閉めた。これでもし気づかれても、少しは持つだろう。
ぼろい小屋の中は、抜けた床から這い出してきたシオンの心細い光によって照らし出されていた。中は雑然としていて、そこここに藁やら薪やらが散乱していた。農具を立てかけてあったであろう場所にはなにもない。こんな日に農業だろうか。あるいは皆が……。
「見事にフラグを回収してしまった……」
ヒュウガが頬を撫でながら、しかめっ面で呟く。掠り傷だったか、血はそんなに出ていないようだ。少し見せてくれ。尋ねる間もなく、闇に煌めきが走った。どうやらローガンが火を起こしたようだ。
「おいバカ、見つかったらどうするんだよっ」
彼の手からイブリア火花を取り上げる。その細い右の小指にはまるイブリア火花の指輪で灯したのだろう。
ローガンは舌打ちをし、寒そうに膝を抱えた。落ち着きなく、左右をちらちら見ている。
なにか恐ろしいものでも見たようだ。相当ななにかが、そのローラとかいう女に起こったのだろうか。
考えていると、ヒュウガと目が合った。同じことを考えていたのだろう。ヒュウガは子どもをいなしたあの時のように、ローガンに目線を合わせた。
「ローガンさん、だな?」
彼はびくりと、おぞましいものでも見るような顔でヒュウガを見る。
ヒュウガは愛想よく笑うこともなく、ローガンに訊いた。
「ローラさんって、どんな人なんだ?」
てっきり、お前には関係ない、で無視されるものだと思っていた。
だが、彼はぽつり、ぽつりと語った。
「……気が強くて、優しくて、それで唯一ホントの俺を理解してくれたんだ……」
ローガンの伏せた目の端には、喪失感が宿る悲しい光があった。そこにはいつもの気取ったような態度はない。あの女ったらしのローガンの皮を脱いだ青年の姿があった。
ヒュウガは彼同様を目を伏せ、はたと呟いた。
「そうか……」
なにがそうだというのか。ヒュウガはひとり納得したように頷き、ローガンに問うた。
「なにが起きたか、話してはくれないか?」
顔を上げたローガンは、嫌悪感をむき出しにヒュウガを見た。よそ者なんぞに語る口はない、ということだろうか。しかし、彼は迷うようなそぶりを見せた後、ほうっと息を吐いた。
「……ローラと会う約束をしてたんだよ。そこで俺は……プロポーズする予定だったんだ。
家はローラがいるってのに、なんだか暗かった。カーテンさえ閉め切られてて、まったく何も見えない状態だったんだ。
こういうのって、ムードって大切だろ? そう納得して、俺は火をつけた。イブリア火花のおしべ一本の心許ない火……炎って色気があるだろ? その頼りない火だけで俺は部屋に向かったんだ。そこから、すでにおかしくて……!」
ローガンは震えをいなすように肩を押さえた。息を吐き出し、震えた声で、自ら記憶を整理するように話す。
「今思えば、あれは泣き声だったんだと思う。泣きながら、詩篇を唱えてたんだ。でも、その時の俺はわかんなくて……声をかけても、返事がない。おかしいって思ったわけだよ。それで部屋に入って、ローラの肩を叩いたらさ……俺を見た途端、悲鳴を上げて、いきなりナイフを、振り回して……っ!」
そうして、彼は目をやられた。殺されると直感し、慌てて逃げ出してきた、と。
思い出した目が痛んだか、ローガンは目を押さえ顔を伏せた。血のにじみようを見るに、相当深い傷であるようだ。それも、最愛の者によってできた傷……さぞ痛むことだろう。
傷の深さから推測するに、ローラという女は寸分のためらいもなく、恐らくは恐怖からナイフを思いっきり振り回したのだろう。それがローガンであると確認することもなく。
そこで、ずっと考え込むようにうなだれていたヒュウガが口を開いた。
「その女、光を嫌うのではないか?」
「光?」
「ローラさんはカーテンを閉めていたのだろう? そしてランプをつけることなく、部屋の中は暗黒世界であったと、この男も言っている」
「たしかにそうだが……単に一目を避けたかっただけじゃないか?」
カーテンを閉め切って、火を灯さずにいる。それは俺たちだって同じだ。何者かに狙われており、バレないように閉じこもっている。そう考えるのが自然ではないか。
「それも一理あるだろう。だが、それでは疑問が残る。
なぜこの男を見た途端ナイフを振り回し始めたのか、ということだ。声が届かないほど、声で人物を判別できないほど錯乱していたのか? 視界を奪われていたのか? 俺がその立場だったら、扉で出待ちして彼を安全に殺すだろう。詩篇を読んで神に助けを求めるほどであったなら、最後の足掻きとして、目を合わせることなく彼を突き刺すだろう。そうでもしなければ、肩を叩かれる間にもやられてしまうだろう? でも、ローラさんはそうはしなかった。なぜだ?」
「そう言われればそうだが……単に前者の可能性もあるだろう? 錯乱状態に陥っていたのかもしれないし、第一、暗いんだからはっきり顔なんて見えねぇだろうが」
「その可能性もあるが……」
光は、その光が当たらない場所の闇を深くさせる。ローガンの顔もぼんやり輪郭が分かる程度にしか、ローラさんは見えなかったはずだ。その状況では、普通の人なら見間違うことだって考えられる。
――見間違う?
俺の脳裏に閃きが走った。
俺はあのおかしな民の姿を思い返す。
男も女も、皆が恐ろしいほどの力を持っていた。ローガンの傷を直接見たわけではないが、ローラさんもそうである可能性が高い。
あの時の民は、皆が武器を手に、互いを悪魔だと口走っていた。ローラさんは直前まで詩篇を口ずさみ、神さんに祈りを捧げていた。まるでなにかが来るのを恐れるように。
そして彼らが対峙するものは、皆光となる炎を持っていたではないか。
「そうか、光か。たしかに、俺を襲ってきた奴らは光を恐れているようだった。それに、今日は不吉なほど暗いしな」
くすんだ窓から見える世界は、図ったように寸分先も見えない。光を恐れる彼らにとっては、よい条件だろう。
「じゃあ、あの時のローラも……そんなのまるで――」
そこまで言って、ローガンははたと顔を上げた。俺もまた、そうであったのだ。
彼と視線を交わし、呟く。
「まるで、セグレタじゃないか……」
異常なまでの力。光に弱いという点。
もしや、ギルドラートの術はこの街にまで……。
自分でも信じられないほど声が震えているのが分かった。いなすように肩を撫でる。だが、そんなものは気休めにもならない。
「リューク、魔を打ち払うには聖なる炎だ」
ヒュウガにいつにもなく真面目な顔で、冷静にそう言われ、俺は逆に落ち着きを取り戻すことができた。
「おい、ローガン。アイツらがセグレタになってしまったとしたら、有効な手立てはわかるだろ?」
ローガンは神妙な面持ちで頷き、胸ポケットからイブリア火花のおしべを取り出し火を灯した。それを放置されてあったランプに移す。ずいぶん弱い光だったが、ないよりはいいだろう。
その炎が映し出したのは、顔を微かにしかめた青い顔のヒュウガだ。
頬をやったヒュウガと、片目をやったローガン。奴らの弱点が分かった今、原因を解明するよりやるべきことは、彼らの怪我の治療だ。たしか、オルガンの診療所は中央広場にあったはずである。
俺はヒュウガに手を差し伸べた。
「とりあえず中央広場に向かおう。そこには誰かいるはずだ」
「たしかに、誰かとは合流すべきだろうな。だが……」
彼は同意したが、俺の手を突っぱねた。
「そんな支えがなくとも自分で立てる」
ヒュウガは少しむっとしたように呟いた。恐れを隠すのは実に子どもらしいなと俺は思ったが、口に出すのはやめておいた。その男気が、いずれ役に立つことだろう。
「じゃあ、扉を開けるぞ。絶対にはぐれるな」
外では、息を殺し合うような、緊迫した息遣いが響いていた。遠くでは奇声と悲鳴と、悪魔と叫ぶ声が聞こえてくる。先でどんな地獄が繰り広げられているのかを想像して、俺は気分が悪くなった。こんな状況にしておいて喜んでいるギルドラートの顔を想像して、憎悪と怒りが沸き起こった。
なぜ、こんなことをするのか。
奴は、なにを望んでいるのか。
思考の端で、ずしゃっという音を聞いた。振り返ると、片目を押さえ、倒れこんだローガンの姿があった。なにが起きた、と顔は驚愕の色に染まっている。
「大丈夫か?」
案じるようにヒュウガは彼に問うた。彼はヒュウガを一瞥すると、ゆっくりと立ち上がる。なにも言わず、ヒュウガと俺を置いて先先行ってしまった。
「親切は受ければいいのに」
片目のみで、距離感が掴めなかったのだろう。こんな状況では、奴らが来ても逃げ切れる見込みはない。意気地にならずに、おとなしく他人の優しさは受ければいいのに。
おぼつかない足取りのローガンの背に呟くと、ヒュウガが仕方ない、と答えた。
「今まで蔑んできた者に救いを求めるなど、ローガンさんのプライドが赦さんだろう。お前も、彼に救いを求めるなどまっぴらごめんだろう?」
そう言われれば……確かに、意地でもローガンやダニエラたちの助けは借りないだろう。
「そういうものだ。いじめというものは、そうやって隠匿されてゆくんだよ。当人ほど、意気地になるものだからな」
「ん、ローガンはなにかされてたのか?」
素朴な疑問には、ヒュウガは答えなかった。思い返すような目で、闇を見つめるだけだった。
そうだ、と彼は視線をよこした。
「ローガンさんには優しくしたほうがいいやもしれん」
「? なんでだ?」
「自信がないんだろう。魅力を維持するのも大変だろうしな」
そう言ってヒュウガは、自分の右小指を撫でた。
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