三日目
ゴーンと、教会の鐘が六時を告げる。雑念を浄化していくらしい重低音に紛れ、ちりんと甲高い鈴の音が家を通り過ぎて行った。
……もう、この日が来たか。
重たい腰を上げ、大きく伸びをする。外に出、井戸水で眠たい顔を洗うと、刺すような冷たさが意識を覚醒させた。
水を飲み、準備のために家に戻ると、ヒュウガも寝ぼけ眼を擦っていた。よくは眠れなかったようだ。目の下の隈が濃い。
「おはようさん」
「……おはよう」
声をかけると、やる気のない声でヒュウガは答えた。
あの夜、あれからまだ泣いていたのだろうか。腫れぼったい目は、擦りすぎたか真っ赤になっている。目もやれず、俺は聖剣とナイフを手に取った。
「どこへ行く?」
まだ完全には目覚めていないのだろう。低い声で問うたヒュウガに答える。
「スフィア広場だ」
「なにをしに行くのだ?」
「…………」
口をつぐんでいると、疑念の籠った視線が背に刺さった。それでも黙っているとその視線は消え、その代わり大きな欠伸と衣擦れの音がした。
「俺も行っていいか?」
「は? なんでだよ」
「暇だし、それにこの俺が救う者たちの姿を見ておきたいではないか」
「ダメだ」
「何故、」
「子どもが行っても面白くない」
「この俺を子ども扱いか。面白い」
振り返ると、ひどく機嫌が悪そうな顔がある。泣きはらした目であるから、一層だ。
俺はため息をつく。
「しょうがない。ついてきてもいいが、」
「いいが?」
「お前はシエラの家で留守番だ」
「……は?」
不機嫌そうな顔が一層不機嫌になった。細められた鋭い目が眉とともに垂れる。浮かび上がった青筋は、その許可に対する不服を訴えていた。
「それは連れて行っているのではない。結局俺が置いて行かれているだけではないか!」
叫んだ声には、寝起きゆえの凄みがあった。よっぽど不服と見える。その姿は、さながら大人の理不尽に声を荒げる子どもだ。
俺は深いため息をついた。
「鏡があったら見せてやりてぇよ、お前のその顔。んな顔、人様に見せられるかよ。連れてきて恥かく俺の身にもなれ」
「なっ、」
「まぁ、いいじゃん。シエラもお前に話がしたいみたいだし、なんかいろいろ話を聞きたいらしいぜ、その、お前の神さんの話」
それはもっぱら嘘だったが、その一言で彼の不機嫌さは一気に吹き飛んだようだ。
「……ホントに?」
頭を近づけて尋ねる様子は、本当に子どものようだ。
「ホントホント」
投げやりに答えると、ヒュウガは胸を少し反らせた。ふふっと気持ち悪く笑い、左手を胸に添えてポーズをとった。感極まっているのだろうか。困ったらヒュウガの設定を聞いてやれという神さんの言葉は、どうやら本当だったようだ。その犠牲になるシエラには申し訳ないが、仕方ない。必要な犠牲だ。ヒュウガを救うための。
「とっとと井戸で顔洗ってこい。先行くぞ」
外を示すと、ヒュウガは笑みを浮かべて部屋を飛び出した。その後ろ姿に、俺は呟く。
「……やっぱり、あんなもん見せらんねえよな」
これから向かうスフィア広場は、革命について話し合うための集会の場。神のおめでたい光で守られているゆえにギルド兼集会場となったわけだが、その実理不尽な暴力に満ちた場所だ。子どもに耐えられる場所ではない。
それは、この澄んだ聖剣が一瞬にして曇り鈍色に染まるほどだ。
「さぁ行こう。早く行こう!」
扉を蹴破る勢いで現れたヒュウガに、俺は苦笑した。本当に、こう見ればただの子どもだ。少し手のかかる、強がりなうっとうしい子ども。誰かの面影があったが、それが誰かまでは思い出せない。
「はいはい」
ヒュウガに急かされ、俺は外へ出る。
コイツには、穢れに染まってほしくないな。
そんなことを思いながら。
――あなた聞いた? 向かいの家の旦那さん、昨日から行方不明らしいじゃない。
――え、あの時告げの花農家のとこの?
――そうそう、朝出かけたと思ったら、今も帰ってきてないそうよ。
――やだ、怖いわねぇ。やっぱり、奥さん相当ヒスってる?
――えぇ、もう食事が喉を通らないとかなんとか……。
――いったいどうしちゃったのかしらね……。
井戸端会議の側を通ると、嫌悪と疑いの目が刺さった。俺じゃねぇよ。そう言っても無駄なのは分かりきっている。つまらない噂話に耳を傾けて抗議する暇など、俺にはないのだ。
「で、そのシエラというのは……前に会った女か」
「あぁ。一応、行儀良くしろよ」
「なんだ、この俺がそんなに品性のない者に見えるか?」
「見える」
「即答だな……笑わせてくれる」
くっくっと喉を鳴らしたヒュウガを放り、シエラの家に足を踏み入れる。細い通路の飛び石を通ると、ぼろい玄関はすぐそこだ。
ヒュウガは気味が悪いほど、俺の罵倒に応じない。相当シエラと会うのが楽しみらしい。というより、自分の世界を語るのが、だろうが。
すっかり酔いしれたヒュウガの独り言に、不安が募ってばかりだ。面倒なことが起こらなければいいが。そう願って戸を叩くと、出迎えたのはいつもの通りディオさんだ。
「ほう、珍しいお客ですね」
ヒュウガを品定めするように見、そう答えたのはディエさんだ。
「すいません、少しの間、コイツ預かってもらってていいですか?」
なおも独り言を続けるヒュウガを差すと、ディエさんは俺の方を見、ふっと微笑んだ。
「はい。シエラ様も喜びましょう」
「ありがとうございます」
いえいえ、と笑うディエさんに一礼。そして、家から持ってきた籠を差し出す。それを彼は受け取り、途端顔色を変えた。
「なんです? これは」
「どうせ朝飯、二人とも食ってないでしょう?」
「いや、」
「この横の野郎も食ってないんで、どうせなら一緒に食えばいいかなって」
「そうではなく……」
おそらく彼が言っているのは、パンのほかにあるのだろう。
籠の中身はパンと水。そして淡い、まるで流れる水でできた絹のように滑らかに波打つ花、ソリアだ。つまらない無臭の花で、見かけに合わず硬い。神の涙から咲いただの、神の依り代だの、眉唾物の噂だらけの花だ。だが、あながち嘘とも言えないのか、神殿の水辺にしか咲かないし、神さんが大切に守っているものだ。その神の象徴を描きたいと、前からシエラは言っていた。
ディエさんは俺にため息を吐きかけ、腰に手を当てた。――説教だ。ディエさんが家督として使用人を叱るときのクセだった。
「まったく、あなたは昔から懲りもしない。わかっているんですか? この花は――」
「摘んだだけですから。まぁ、許可は得てないですけど」
ディエさんがこんなにも必死なのは、ソリアが神のものであるため、摘み取った者は神の裁きを受けると信じられているからだろう。そんなの、大した信仰心のない俺にはどうだっていいことだ。だが、少なくとも俺よりは神を信じているディエさんにとって、どうでもいいことではない。
「適当に活けてあげてください。お嬢様の部屋にも花があったほうがいいでしょうし」
あの埃臭い、暗くてじめっとしたところに閉じこもっていたら気が狂う。せめて花でも活けて、明るさを取り入れないと。まぁ、俺が言えた口でもないだろうが。
「……わかりました。シエラ様の反応が少し心配ですが……」
確かに、あの狂信者はなにを言うかわからないな。
だけど、彼女にはそれ以上に純粋な欲がある。
神を、その神を愛する者たちを描きたいという、芸術的な性だ。
「きっと喜びますよ。お嬢様、ああ見えて強欲で傲慢ですから。知ってるでしょう?」
「……ですね」
ディエさんはなにかを思い出したかのように突然ふっと笑った。きっと、思い出したのだろう。あの迷子事件を。きっかけは、シエラが言い出したことであったから。
「おいリューク、で、その少女は……」
ヒュウガはもう待ちきれないらしい。もう少し思い出に浸りたい思いはあったが、俺だって用事がある。行きたくもないが、行かないわけにはいかないのだ。
「じゃ、任せても大丈夫ですか?」
「乙女殿でしたら、歓迎ですよ」
微笑んだディエさんに一礼。俺は足早にシエラの家を去った。
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